きよもと えいじゅろう
清元 榮壽カ
本名宮川源次
別名義宮川寿朗・大和栄棋
生年月日 (1904-04-21) 1904年4月21日
没年月日 (1963-03-10) 1963年3月10日(58歳没)
出生地 東京府牛込区
死没地 京都府京都市
職業江戸浄瑠璃清元節三味線
大和楽三味線
活動期間1910年 -1963年
活動内容江戸浄瑠璃清元節三味線
大和楽三味線
配偶者あり
公式サイト ⇒清元協会ホームページ
主な作品
清元榮壽郎作曲
『六代菊五 三嶋菊』
「おさん茂兵衛」
『雪月花』
『峠の万歳』
『野崎の春』
『武蔵野』
『月』
『雪の道成寺』
『八朔』他
宮川寿朗作曲
『あやめ』
『雪折竹』
『蝶』
『たけくらべ』
『樋口一葉』
『おせん』
「團十郎娘」
「夜の梅」
『炉辺ものがたり』他
受賞
1951年(昭和26年)文部省芸術祭芸術祭賞を受賞
1955年(昭和30年)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
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清元 榮壽カ(きよもと えいじゅろう、新字体:栄寿郎、1904年4月21日 - 1963年3月10日)は、大正・昭和中期に活躍した清元節三味線方。本名は宮川 源次。大和楽では、本名や宮川寿朗(大和栄棋)の名で活動した。 若くして実力を認められ、名人五世延壽太夫の立三味線を弾くようになる。また、延壽太夫の子息四世栄壽太夫
略歴
1904年(明治37年)4月21日、東京府牛込区に生まれる。
1910年(明治43年)、清元順三郎に入門。清元三二を名乗る。(後に清元東三郎に改名)
1916年(大正5年)、初舞台。
1922年(大正11年)、当時の家元、五世清元延壽太夫と三世清元梅吉(後の二世清元壽兵衛)の不和による清元分裂に伴い、師に従い梅吉派につくが間もなく高輪派(延壽太夫派)に復帰。若くして、延壽太夫のタテ三味線を弾く。
1923年(大正12年)、三世清元榮次郎を襲名。
1945年(昭和20年)、名古屋西川流名古屋をどりに参加。二世西川鯉三郎や名古屋西川流の高弟の舞踊会に新曲を提供するようになる。
1953年(昭和28年)、清元榮壽郎と改名。
1963年(昭和38年)、仕事先で滞在していた京都ホテルで心臓発作を起こし急逝。
受賞
1951年(昭和26年):作曲、演奏した『十三夜』が文部省芸術祭芸術祭賞を受賞。
1955年(昭和30年):重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
改名
清元三二、清元東三郎、清元榮次郎。
人物とその周辺
特に志壽太夫とのコンビは絶妙といわれ、戦後清元の黄金期を築いた功績は大きい。志壽太夫の著書によると、「榮寿郎さんは、どんなに間の悪い太夫や舞踊家に対しても、またどんな小さな舞台、不本意な仕事であっても、絶対に芸を投げなかった(いい加減な芸をしなかった)」(要約)といい、「細三味線を持たせたら榮壽郎さんの右に出るものはいない」とまで言わしめた。その類まれな技術に心酔した志壽太夫は、長男の壽夫を三味線方にするべく榮壽郎に預けた(壽夫は後の清元榮三郎)。
その卓越した技量から紡ぎ出される音色、演奏家・舞踊家ともに絶大な評価を得ていた作曲の才を、昭和に入って成立した新邦楽『大和楽』の創始者大倉財閥の総帥大倉喜七郎に買われ、成立間もない大和楽の三味線方・作曲家としても活躍し、現在も繰り返し上演される『あやめ』・『團十郎娘』など初期の名作を残した。
人間国宝の認定に際しては、清元界では一番早く、しかも15歳も年上で榮壽郎の修行時代には既に名声を得ていた清元壽兵衛より一年早く51歳で認定を受けていた中での急逝であった。
温厚な人柄で多くの人に慕われ交友関係も広く、また弟子の養成にも優れ、父・祖父と相次いで亡くした六世延壽太夫を指導したばかりでなく、後に人間国宝の認定を受けた清元榮三郎や清元榮三をはじめ、現在の認定者である清元清壽太夫、名手として知られた二世清元一壽郎などを指導した。