清俊彦
[Wikipedia|▼Menu]

清 俊彦基本情報
国籍
日本
出身地宮崎県児湯郡新富町
生年月日 (1945-09-03) 1945年9月3日
没年月日 (2017-11-15) 2017年11月15日(72歳没)
身長
体重179 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1964年
初出場1964年6月9日
最終出場1976年6月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


宮崎県立高鍋高等学校

西鉄ライオンズ (1964 - 1967)

近鉄バファローズ (1968 - 1975)

阪神タイガース (1976)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

清 俊彦(せい としひこ、1945年9月3日 - 2017年11月15日[1])は、宮崎県児湯郡新富町[1]出身のプロ野球選手投手)・解説者
経歴

7歳上の兄から野球の指導を受け、中学時代は1年生から登板し2年生でエースとなる[2]

高鍋高校では1年次の1961年に控え投手として夏の甲子園に出場し、秋田商との1回戦でリリーフに起用されるが0-1で敗退[3]。同年秋からエースとなり、秋季九州大会決勝で鹿児島玉龍高を完封し優勝。

1962年には春の選抜に出場するが、1回戦で中塚政幸のいるPL学園に敗れる[4]。同年夏は県予選決勝で宮崎大淀高に0-1で惜敗。

1963年夏も同じく県予選決勝で高橋博小川亨のいる宮崎商に敗れた。

1964年西鉄ライオンズへ入団し、若林忠志ヘッドコーチの指導でコントロールを付ける。二軍戦では2ヶ月で5勝を挙げ、一軍で11試合に先発するが、安定感を欠いた[2]

1965年は主に中継ぎとして起用された。同年は夏場に急性肝炎を発症し、一時入院している[2]

1966年には稲尾和久の衰えもあり先発陣に加わると、開幕から好調を維持。6月12日近鉄戦(小倉)でノーヒットノーランを達成する[2]が、シーズンでは5勝止まりに終わる。

1967年はリリーフ中心に活躍するも、4勝と今一つ伸び悩む。

1968年高木喬菊川昭二郎とのトレードで近鉄バファローズへ移籍し、1年目から先発4番手に食い込み6勝を挙げる。

1969年に18勝を記録し、最高勝率のタイトルも獲得。

1970年にはオールスターゲームに出場した。解説者の佐々木信也に「日本で一番フォームがきれいな投手」と評され[5]、その後も高い制球力を武器に、3年連続で2桁勝利を記録するなど、鈴木啓示に次ぐ右のエース格として活躍。

1972年にはチーム最高で自己最多の19勝を挙げ、8月16日東映戦(日生)、22日の西鉄戦(日生)、27日南海戦(伊勢)と3試合連続完封も記録[6]し、最優秀防御率のタイトルを獲得した[2]

1973年に清の投手成績も急降下し、自身の故障や太田幸司井本隆など若手投手の台頭もあって徐々に出番が減るが、若手の梨田昌孝とバッテリーを組み、梨田に配球の妙を教えた[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef