清仁親王
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清仁親王
(きよひとしんのう)
続柄第65代
花山天皇の第二皇子

全名清仁(きよひと)
身位親王四品
敬称殿下
出生不詳
日本山城国
死去長元3年7月6日1030年8月7日
日本・山城国
配偶者源頼房の娘
 不詳
子女延清王[1]
兼文王
永子女王
信子女王
康資王
父親花山天皇(第65代天皇
母親中務(平祐之の娘)
役職弾正尹
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清仁親王(きよひとしんのう、生年不詳 - 長元3年7月6日1030年8月7日))は、平安時代中期皇族花山天皇の第二皇子[2]官位四品弾正尹
経歴

誕生時には父の花山法皇は既に出家しており、母の中務は出自が低かった。更に花山法皇は中務の実娘の平子も同時に寵愛して皇子昭登親王を儲けるなど複雑な事情があったために、異母兄の昭登親王ともども祖父冷泉上皇の子(第5・第6皇子)として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んだと伝わる。

一条朝寛弘元年(1004年)弟の昭登とともに親王宣下を受けた。時の執政であった左大臣藤原道長は複雑な背景を有する清仁・昭登への親王宣下に消極的であったが、花山法皇の意向を受けてやむなく従ったとされる。

寛弘8年(1011年)8月に藤原実資加冠によって昭登親王とともに元服[3]、9月には四品に叙せられる。同年10月の三条天皇即位式では左の擬侍従に昭登親王、右の擬侍従に清仁親王が任命されたが[4]、結局清仁親王が左の擬侍従を務めた[5]。なお、長和5年(1016年)に行われた後一条天皇の即位式では、左方の侍従を昭登親王が、右方の侍従を清仁親王が務めている[6]

その後、弾正尹を務めるが、長元元年(1028年)に出家し、長元3年(1030年)7月6日薨去した(『小記目録』)。



官歴

寛弘元年(1004年) 5月2日:親王宣下[7]

寛弘8年(1011年) 8月23日:元服[8]。9月10日:四品[8]

万寿元年(1024年) 正月26日:見・弾正尹[8]

長元元年(1028年) 日付不詳:出家(四品弾正尹)[9]

長元3年(1030年) 7月6日:薨去[10]

系譜

※ 注記のないものは『尊卑分脈』による。

父:花山天皇

母:中務(平祐之の娘)

妻:源頼房の娘

男子:源延信


生母不詳の子女

男子:延清王[1]

男子:兼文王

女子:永子女王

女子:信子女王 - 藤原能長

女子:寛意の母[11]


養子女

養子:康資王(?-1090) - 実は源延信の子、康資王母は伊勢大輔の娘で同じく歌人


脚注[脚注の使い方]^ a b 前田本『日本帝皇系図』附載「伯系図」
^ 最も信憑性が高い『日本紀略』寛弘元年(1004)五月四日条に「以冷泉院皇子昭登・清仁為親王。実華山院御出家之後産生也」とある。花山法皇の強い希望で宇多法皇の妃藤原褒子が産んだ雅明と行明両親王の場合(それぞれ、長兄醍醐天皇の第十と第十二皇子として出養し、命名も醍醐皇子の「明」で統一した上で親王宣下がなされた)に似せて、祖父で在俗の冷泉上皇の子として親王宣下されるよう、時の執政藤原道長が裁可した(『御堂関白記』では寛弘元年(1004)4月25日に名字を一条天皇に奏上、5月2日に親王宣旨)。受領階級の母を持ち平安初期なら親王宣下のハンディとなりかねない出自にもかかわらずである。『日本紀略』の記述順でも明らかなとおり、「中務が腹の一の御子、女の腹の御子二宮を(中略)、親腹の御子をば(冷泉院の)五の宮、女腹の御子をば(同じく)六の宮と」は『栄花物語』初花巻が出生順を逆にした誤記か創作が元になる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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