淳祐_(南宋)
[Wikipedia|▼Menu]

淳祐(じゅんゆう)は、中国南宋理宗の治世に使用された元号1241年 - 1252年。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}プロジェクト 紀年法
西暦・干支との対照表

淳祐元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年
西暦1241年1242年1243年1244年1245年1246年1247年1248年1249年1250年
干支辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳丙午丁未戊申己酉庚戌
淳祐11年12年 
西暦1251年1252年
干支辛亥壬子

出来事

嘉熙4年

10月3日:翌年より踰年改元の詔が下る。


淳祐元年

正月15日朱熹周敦頤張載二程らが孔子廟に従祀。これから道学が儒学の正統となる。

7月:和議を求めに来たモンゴルの使者が抑留される。

11月16日:モンゴル軍が安豊を包囲したが、余?の迎撃を受けて逃げる。


淳祐2年

2月:モンゴル軍が淮東・四川に侵寇する。

12月18日孟?が京湖安撫制置大使、余?が四川安撫制置使に任ぜられる。


淳祐3年

3月:合州の釣魚山に築城する。

7月17日:大安軍がモンゴル軍により侵される。


淳祐4年

5月:モンゴル軍が寿春を包囲したが、呂文徳の迎撃を受けて逃げる。

8月15日:州県の租税を苛酷に取ることを禁ずる詔勅が出る。

12月4日宰相の史嵩之が父の喪を理由に失脚する。


淳祐5年

5月14日:沿江・湖南・江西・湖広・両浙に輕捷戦船を建造し、遊撃の壮士を置くという詔勅が出る。

7月:モンゴル軍が揚州に侵入してから去る。


淳祐6年

正月元日:国用所が設置される。

5月22日:諸鎮に動員令を下し、辺境の守備を厳しくする詔勅が出る。

9月3日:孟?死去。後任には賈似道が京湖制置使として赴任。

12月:モンゴル軍が京湖・江淮に侵寇する。


淳祐7年

2月8日会子の使用期限を廃する。

6月27日両淮襄陽・四川に戦禍による死者の遺体を探し、これを収拾せよという詔勅が出る。

8月:呂文徳が泗州にてモンゴル軍を撃退する。


淳祐8年

5月18日:余?が兵部尚書、賈似道が刑部尚書を兼ねる。


淳祐9年

3月7日:世界初の法医学者宋慈が死去。


淳祐10年

2月9日:沿海の山奥・海島に保甲を置き、銅銭の流出と会子の偽造を取り締まらせる。

9月1日:賈似道が両淮制置大使に転任される。

11月:余?の率いる宋軍が漢中へ北上し、興元府を攻める。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:12 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef