深谷 又三郎(ふかや またさぶろう、1856年9月29日(安政3年9月1日[1][2][3])- 1930年(昭和5年)7月18日[1][2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 江戸・小石川[要出典](現在の茗荷谷付近)で、幕府撤兵取締、沼津勤番組之頭支配世話役介を務めた深谷師安(十次郎)の長男として生まれる[1][3]。元幕府15代将軍・徳川慶喜に従い、幕臣70万人と共に駿府へ移住[要出典]。沼津兵学校附属小学校(現沼津市立第一小学校)で学んだ[1]。その後、千葉県・東京府の小学校教員、海軍乙科生徒を経て、1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学[1][3][4][5]。1878年(明治11年)12月に卒業し、1879年(明治12年)2月、陸軍歩兵少尉に任官した[1][3][4][5]。 参謀本部測量課課僚[1]、陸軍戸山学校教官[3]などを務め、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍した[1][3]。1900年(明治33年)10月、歩兵第28連隊長に就任し、1902年(明治35年)1月、陸軍省人事局補任課長に転じて、同年11月、歩兵大佐に昇進[1][2][3][6]。1903年(明治36年)7月、近衛歩兵第2連隊長に転じて日露戦争に出征し、 沙河会戦まで参戦した[1][2][3][6]。1904年(明治37年)11月、名古屋連隊区司令官となり、1907年(明治40年)2月、陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された[1][2][3][6]。
経歴