深見神社
拝殿
所在地神奈川県大和市深見3367
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度28分07.0秒 東経139度28分17.8秒 / 北緯35.468611度 東経139.471611度 / 35.468611; 139.471611 (深見神社)
深見神社(ふかみじんじゃ)は、神奈川県大和市深見に鎮座する神社。西暦927年(延長5年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされる[1]。また、江戸時代の『新編相模国風土記稿』では「鹿島社」と記されている[1]。 1876年(明治9年)[3]の火災により、社殿や古文書に至るまで全て焼失している。以下は当社に伝わる由緒であるが、『総国風土記』や『延喜式神名帳』などの歴史文献に記された内容を除き、正式な文書(史料)として今に残っているものではない。 『総国風土記』によると「雄略天皇22年(478年)3月に創祭」とあるが、正確な創建時期は不明である[4]。また、当時祀られていた祭神は「闇?神」とも記述されている[4]。一方で、明治時代に建御名方神が合祀されるまでの間に、何らかの経緯で闇?神は当社(本殿)の祭神から外れて境内社の御倉稲荷神社の祭神となり、合祀が行われるまでは「武甕槌神」のみが当社(本殿)の祭神であった(現在有力とされるその経緯については後述)。 県史蹟調査員・石野瑛の説によれば、かつては相模湾の海がこの辺りまで深く入り込んでいて、舟・筏による交通が敷かれていたとされる(この入り江は「古深見入江」と仮称されている)。さらに、境川流域一帯を表す総称として、深見は「深海」または「深水」と古くは書かれていた。なお、深見という地名は、承平年間(931年-938年)に編纂された『倭名類従抄』に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出となっており、ここでも現在の地域より広い範囲を表す総称となっている[5]。 当社の縁起では、「東国の平定を目的とする武甕槌神(当社の祭神、タケミカヅチ)が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾神(イザナギ)の御子である倉稲魂神(ウカノミタマ)と闇?神(クラオカミ)によりこの地が治められた。そして、雨神である闇?神はこの地に美田を拓き土民による郷を開いた」とされており、これが深見の始まりとされる(両神は境内の御倉稲荷神社に祀られていたが、闇?神が本殿に合祀されたことにより現在では倉稲魂神のみとなっている)[5][6]。 かつてより地元の民衆(地方土民)による信仰の中心とされてきたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄のほか渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰されてきた。徳川幕府による大坂の陣の折、当社で武運長久を祈願した旗本の坂本小左衛門重安はその際に田の寄進もしており、「鹿島田」として今に残っている。さらに、重安の養子で寺社奉行となった坂本重治は、当社を度々参拝しながら社殿の造営も行い、「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標 2012年(平成24年)には再建70周年を記念して新しい社号標を建立し、『延喜式神名帳』に登載されている当時の祭神である「闇?神」が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。 御倉稲荷神社と靖國社は当社拝殿の西側で、東向きに並ぶようにして鎮座している。
祭神
闇?神(クラオカミ・雨神)当社の創建当初の祭神と考えられる。2012年(平成24年)に境内社の御倉稲荷神社より合祀。
武甕槌神(タケミカヅチ・武運長久の神)江戸時代前期に深見藩の領主であった坂本家が常陸国の鹿島神宮より勧請したとされ、以来、当社の祭神とされてきた。この時にこれまでの祭神であった闇?神は境内社の御倉稲荷神社に合祀されたと考えられる。
建御名方神(タケミナカタ)1909年(明治42年)、深見に鎮座していた境外末社の諏訪神社より当社祭神と同列にして合祀。
当社の祭神の変遷(移り変わり)については本項後述、「#祭神の変遷と別称「鹿島社」の由来」も参照。
由緒・歴史
深見と当社の起り(文献・社伝)
当社に対する信仰
近代以降の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃、公称社格も不詳となった。1909年(明治42年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、祭神の「建御名方神」を当社へ同列に合祀した(相殿)[4]。なお、この時点では仮の社殿(仮殿)であり本殿等は造られていない。以降、社殿等の復興が幾度も計画されるが実現に至らず、焼失から66年後の1941年(昭和16年)になってようやく現在の位置に再建された(当社社殿の他に鳥居、末社なども造られた)。翌年には再び郷社に列せられている(旧社格制度は1946年(昭和21年)に廃止された)[5][6]。
摂社・末社等
境内社御倉稲荷と靖國社が並ぶ様子東側の鳥居:本来の鳥居とされ、ここから一直線上の御倉稲荷の辺りに旧社殿があったものと思われる
御倉稲荷神社(おくら稲荷)倉稲魂神(ウカノミタマ)が祀られている。2012年(平成24年)までは、現在本殿の祭神である闇?神(クラオカミ)も祀られていた。深見神社の古社地といわれ、かつては稲荷の辺りに当社の拝殿が東向きにあったとされる(現在は南向き)。なお、現在の場所に社殿等が造られたのは、1941年(昭和16年)になってからのことである[5]。