深紫
ふかむらさき
16進表記#493759
RGB(73, 55, 89)
CMYK(18, 38, 0, 65)
HSV(272°, 38%, 35%)
出典[1]
深紫(ふかむらさき、こきむらさき)は色の一種で、濃い紫色である。黒紫(くろむらさき)とも書く。それぞれ、浅紫、赤紫と対になる語である。平安時代から濃き紫の意味で「こきむらさき」と呼ばれるようになり、単に深(こき)、深色(こきいろ)とも呼ばれた[2]。古代の日本で高貴な色とされた。 日本の服制で深紫が現われるのは、大化3年(647年)制定の七色十三階冠である[3]。これに先立つ推古天皇11年12月5日(604年1月11日)の冠位十二階で、大徳の冠の色を深紫とする説も行なわれているが[4]、それは七色十三階冠からの類推で、格別の証拠はない。服制において紫を深紫と浅紫に分けるのは日本だけで、同時期の隋・唐・新羅などにはない[5]。 七色十三階冠では、大織・小織・大?・小?という上位4つの冠位について、深紫の服を用いるよう定めた。服色は大化5年(649年)の冠位十九階、天智天皇3年(664年)の冠位二十六階にも踏襲されたと考えられる。ただ大?・小?の冠位名は天智3年にそれぞれ大縫・小縫と変更になった。冠の色は不明である。
古代日本の服制における深紫
持統天皇4年(690年)4月の改訂で朱華がなくなり、黒紫は浄大壱から浄広弐までという皇族の上層に限られた。黒紫は名が異なるだけで深紫と同じ色とされる。太政大臣の高市皇子など、皇子数名に限られた高貴な色である。
大宝元年(701年)制定の大宝令は、親王と、一位の諸王・諸臣の服を黒紫と定めた[6]。この区分は養老令でも踏襲され、ただ名称が深紫に改められた[7]。諸王というのは親王を除く皇族で、親王を一世と数えて四世までの者、諸臣は皇族以外の者である。天皇の白と皇太子の黄丹に次ぐ色で、臣下として望みうる最高の色である。
時代は下るが『延喜式』は染色用の材料を規定している。それによると深紫の綾一匹の原材料は、紫草(ムラサキ)30斤、酢2升、灰2石、薪360斤である。帛や羅を作る場合、他の原材料は同じで酢を1升にした。これに対して浅紫で用いる紫草は5斤で、この差が色の違いとなる[8]。
深紫・黒紫を服色とする冠位・位階
七色十三階冠・冠位十九階・冠位二十六階。647年から685年
大織・小織・大?・小?
冠位四十八階。685年から690年
臣下の正大壱、正広壱、正大弐、正広弐、正大参、正広参、正大肆、正広肆
冠位四十八階。690年から701年
皇族の浄大壱、浄広壱、浄大弐、浄広弐
大宝令・養老令。701年以降
親王の一品・二品・三品・四品
諸王の正一位・従一位
諸臣の正一位・従一位
脚注^ “ ⇒深紫 ふかむらさき #493759”. 原色大辞典. 2013年5月16日閲覧。
^ 竹内淳子『紫』16-17頁。『日本史色彩事典』は「こきむらさき」で項目をたて、「ふかむらさき」に言及しない。新編日本古典文学全集『日本書紀』は「ふかむらさき」である。
^ 『日本書紀』巻第25、大化3年是歳条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の166-167頁。以下、冠位に冠する事実は説くに注記がない限り『日本書紀』の当該年月条による。大化3年を色彩名の初見とするのは内田正俊「色を指標とする古代の身分の秩序について」43頁。
^ 江戸時代に谷川士清が『日本書紀通証』で唱えてから流布した(巻27、臨川書店版第3冊1521頁)。この説への批判は、冠位十二階#色とその脚注にある諸文献を参照。
^ 内田正俊「色を指標とする古代の身分の秩序について」37頁、40頁。内田は、中国で色に深浅をつける呼び方のはじまりが上元2年(674年)8月以降になることから、『日本書紀』が記す七色十三階冠制の服色は事実に相違すると考えた(同論文29頁)。
^ 『続日本紀』巻第2、大宝元年3月甲午(21日)条。
^ 『養老令』「衣服令」諸王礼服条・諸臣礼服条、日本思想大系『律令』新装版351-352頁。「継嗣令」凡皇兄弟皇子条、日本思想大系『律令』新装版281頁。
^ 増田美子『古代服飾の研究』259頁。
参考文献
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校訂・訳『日本書紀』3、小学館(新編日本古典文学全集 4)、1998年。
井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系 律令』、岩波書店、新装版1994年。初版1976年。
谷川士清著、小島憲之解題、『日本書紀通證』臨川書店、1978年。
内田正俊「色を指標とする古代の身分の秩序について」、『日本書紀研究』第17冊、塙書房、1988年。
増田美子『古代服飾の研究』、源流社、1995年。
丸山伸彦『日本史色彩事典』、吉川弘文館、2012年。