深田久弥
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1954年ごろ

深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた[注釈 1] きゅうや、1903年明治36年〉3月11日 - 1971年昭和46年〉3月21日)は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。
概要

戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。その場所には『深田久弥先生終焉の地』と表記された石碑が立っている。命日の3月21日は「九山忌」と称される。「深田クラブ」により100名山を加えて200にした日本二百名山もある。
経歴

1903年明治36年)3月11日石川県江沼郡大聖寺町字中町(現・加賀市)で紙商・印刷業を営む深田屋の長男として生まれる。白山を眺めて育ち、医師の稲坂謙三が作った大聖寺学生会の集まりで12歳の時に地元の多くの小中学校の遠足コースであった加賀市南西部の福井県境に近い富士写ヶ岳(942メートル)へ登ったのがきっかけで登山に興味を持ったと自書で述懐している。小学校の裏に錦城山(60メートル)があり、「錦城山の如く美しい心を持て」と校長がよく説いた。

大聖寺町立錦城尋常高等小学校(現在の加賀市立錦城小学校)尋常科および高等科を卒業後、福井県立福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)から第四高等学校を受験するも不合格となり、一浪して1922年大正11年)、第一高等学校文科乙類(現在の東京大学教養学部)に入学し北陸本線で上京、学校の近くの寄宿舎に暮らした。文芸部では堀辰雄高見順と知り合う。旅行部(山岳部)では浜田和雄(登山家・植物学者の田辺和雄)と知り合って大きく影響を受け、山やスキーにも親しんだ。また、柔道やヨットの選手としても活躍した[1]。小学校の先輩には中谷宇吉郎が、福井中学校の同級生には森山啓、一級上に吉田正俊、二級上に中野重治皆吉爽雨、下級生に熊谷太三郎がいる[2]。一高時代はドイツ語を選択し菅虎雄に学び、ゲーテの評論などを残した(『日本百名山』の「百の頂に百の喜びあり」はゲーテの『Wandrers Nachtlied(さすらい人の夜の歌イルメナウ)』の「Uber allen Gipfeln Ist Ruh(全ての頂に憩いがある)」を踏まえたもの)[3]。同学年には雅川滉(成瀬正勝)が、一年上には堀辰雄のほか、神西清小林秀雄がおり、堀や小林の影響でジイドスタンダールなどのフランス文学にも傾倒し、後年著作を残している。柴生田稔からは俳句に対する興味を喚起された。この頃、通学路(御茶ノ水駅から本郷通り)で出会う一人の女学生に対して密かに心を寄せた。1925年(大正14年)、同郷である中野の同人『裸像』に参加(他に中平解、興地実英、大間知篤三、見佐田敏郎、中井精一、秋虎雄、舟木重彦など)。同じ頃、校友会雑誌の編集(文芸部の見佐田敏郎、柴生田稔、熊平精一、安永不二男との共同)や、第9次『新思潮』の同人(他に成瀬正勝、小林勝、青江舜二郎ら)となるなど徐々に文芸・執筆活動を開始する。高校・大学時代に本格的に登山に目覚め、北アルプスや丹沢、大菩薩、奥秩父、八ヶ岳、朝日連峰、尾瀬、薬師岳などを始めとして日本各地の山に登る。あまりに山に熱中したため卒業試験を放棄、留年する(自著『わが山々』によれば”愛すべき山歩きのためのダブり”)。一高の同窓会では石原巌(大正13年入学で後に梓書房『山』の編集長になる)が中心となって活動していた山仲間のグループ「あざらし会」や、GSL倶楽部(GARRIO・SCANDO・LABOR、駄弁る・登る・滑るを意味するラテン語の頭文字)といったつながりもあった。スキーは大正11年に初めてから昭和19年に応召されるまでは毎冬欠かさなかったという。

1926年(大正15年)、一高を卒業し東京帝国大学文学部哲学科に進む[4]1927年昭和2年)、当時円本ブームに沸いていた改造社が編集部員を募集していること知り、大学に在籍したまま入社試験を受けて合格。上林暁は会社の先輩に当たる。1928年(昭和3年)、『新思潮』11月号に小説「実録武人鑑」を掲載、これが横光利一正宗白鳥に認められ文壇デビュー[1]。改造社の創業十周年記念(『改造』創刊十周年)の懸賞創作の募集に際して応募作の下読みを任され、その過程で応募作を通じて北畠八穂に惹かれ、恋に落ちる。1929年(昭和4年)、堀辰雄、横光利一らの同人『文學』(第一書房)の創刊に参加(他に川端康成犬養健永井龍男、吉村鐡太郎など)。上京した北畠と千葉県我孫子で同棲を始めるが、北畠の持病のことを知った親の反対もあって入籍には至らなかった。11月、新思潮に小説『津軽の野づら』を発表。1930年(昭和5年)10月、文藝春秋に『オロッコの娘』を発表。文筆一本の生活に入るため改造社を辞職し、東京帝国大学も中退した。この頃、堀の仲介で本所の新小梅町(墨田区向島)に移る。川端や堀の影響でカジノ・フォーリーにも通ったという。同年、『文學』の流れを汲む『作品』の同人に参加、大岡昇平と知り合う。1931年(昭和6年)、井伏鱒二が『時事新報』に「東京新風景 新宿」として新宿三越の屋上から深田によって東京から見える山岳展望について説明を受けたことを記事にする。1932年(昭和7年)9月、神奈川県鎌倉町二階堂に移る。同年、『改造』11月号に発表した『あすならう』で文壇的評価を確立したが、実は『あすならう』も『オロッコの娘』もその他の作品も、北畠との「共同作業」(代作、ゴーストライター)であった。このことに気付いた小林秀雄川端康成からは厳しくたしなめられた。1933年(昭和8年)10月、文化公論社より『文學界』が創刊され、その同人となる。同人は川端、小林の他に広津和郎林房雄武田麟太郎豊島与志雄宇野浩二などがいた。深田はこの年編集委員になる[5]。11月、江川書房から400部の限定出版で初の作品集『翌桧』刊行(「オロッコの娘」・「乱暴者」・「あすなろう」を収録)。鎌倉に移って以後、山やスキーを中心とした文章が多くなる。鎌倉文士久米正雄里見クを重鎮に、小林秀雄、林房雄、川端康成らと鎌倉ペンクラブ結成。『文藝通信』誌にも「文壇スキーヤー連」などの寄稿を行った。

1934年(昭和9年)5月、改造社の文芸復興叢書の中の一冊として表題作を含む作品集『雪崩』刊行。12月には改造社から初の山の紀行・随想集『わが山山』刊行。装幀は上野・黒門町の「うさぎや」二代目谷口喜作による。1935年(昭和10年)、日本山岳会に入会(石原巌と額田敏からの紹介)。石原の雑誌『山』に「山の手帖」と題して一つ一つの山を紹介する連載が始まったが、第一の巻機山と第二の会津駒ヶ岳が載ったところで休刊となった。太宰治の『狂言の神』では自殺を考えて鎌倉を彷徨った主人公が、話し合いを願って深田の家を訪れ、深田と将棋を指すシーンがある。


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