深沢幸雄
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この項目では、版画家について説明しています。同名の英文学者については「深澤幸雄 (英文学者)」をご覧ください。

深沢 幸雄

誕生日 (1924-07-01) 1924年7月1日
出生地山梨県中巨摩郡平林村
(現:南巨摩郡富士川町
死没年2017年1月2日(満92歳没)
国籍 日本
芸術分野版画
教育東京美術学校
(現・東京藝術大学
受賞勲四等旭日小綬章(1995)
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深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 2017年1月2日[1])は、日本版画家、銅版画家。多摩美術大学名誉教授[2]。深澤幸雄と表記されることもある。

銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における戦後銅版画の第一人者のひとりとされている[3]。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画[4]の創作も行なっている[3]

初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった[5]。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。東京国際版画ビエンナーレ、ルガノ国際版画ビエンナーレ(スイス)、聖ジェームス協会日本現代版画展(アメリカ)、サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル)などで展覧会が開催された。
経歴アトリエで制作中の深沢
出生から東京大空襲における負傷

1924年(大正13年)7月1日、山梨県中巨摩郡平林村(後の南巨摩郡増穂町平林、現在の南巨摩郡富士川町平林)に生まれる[5][6][7]。幸雄は深沢家の次男[8]。父親が朝鮮総督府官吏であったため、生後すぐに朝鮮半島に渡った[4][6]

1931年(昭和6年)に忠北堤川郡立小学校へ入学、1937年(昭和12年)に忠南大田中学校へ入学し、中学時代までを日本統治下の朝鮮・堤川(現在の大韓民国忠清北道堤川市)で過ごす[9]。中学時代には友人の家で『世界美術全集』を目にし、美術教師の影響を受け油彩画をはじめる。さらに大田市の鶏竜山窯を見学し、陶芸にも関心を持ったという[10]

1942年(昭和17年)に東京美術学校(現東京藝術大学)へ入学するが、父親の条件で油彩画ではなく工芸科彫金部予科を先行する[10]。美術学校時代は葛飾区堀切に下宿し、デッサンに専念する。西洋の画家ではムンクゴッホレンブラント、日本人の画家では中川一政の水墨画に傾倒していたという[11]。1949年(昭和24年)に彫金部を卒業した[4][10]

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では駒込において被災し、右膝を負傷する[10]。翌年4月6日には山梨県甲府市の第63部隊に入隊し、重機関銃中隊に配属される[10]。同年8月の終戦後は復学し、石井鶴三の指導によりデッサンに専念する[10]。1947年(昭和22年)には詩人の川路柳虹の仲介で学生結婚する。
メキシコ来訪と作風の変化


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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