深尾須磨子
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深尾 須磨子
(ふかお すまこ)
1953年の肖像
誕生荻野 志げの
(おぎの しげの)
(1888-11-18) 1888年11月18日
日本兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市
死没 (1974-03-31) 1974年3月31日(85歳没)
日本東京都
墓地月照寺
職業詩人作家フランス語翻訳者
言語日本語
国籍日本
最終学歴菊花女子専門学校
活動期間1921年–1970年
代表作『牝鶏の視野』、『永遠の郷愁』、『深尾須磨子詩集』[1]
デビュー作詩集『真紅の溜息』
配偶者深尾贇之?
影響を受けたもの

与謝野晶子ルソー(哲学者)[1]コレット

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深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年11月18日 - 1974年3月31日)は、日本の詩人作家翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)[2][注釈 1]目次

1 来歴

2 著書

2.1 単行本

2.2 雑誌記事


3 翻訳

3.1 単行本

3.1.1 児童書


3.2 訳詞


4 詩作

4.1 歌詞

4.2 校歌

4.3 全国学校音楽コンクールの課題曲


5 日記・旅行記

6 参考文献

6.1 伝記・人物評


7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


来歴

兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ[2]。京都師範学校中退[5]、1907年京都菊花高等女学校卒[2][5]与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之?[6]と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇[7]と散文「最終の旅」[8]が処女作となる[注釈 2]

大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り[5]シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている[注釈 3]。まる3年の在外生活を経て帰国しコレットの邦訳を初めて行う[11]。1930年詩集『牝鶏の視野』を上梓、その12月、毎日新聞特派員として再度、シベリア経由でフランスに渡るとおよそ1年半の滞在[5]の間に生物学を学び、昭和7年(1932年)春に帰国した。深尾のフランス渡航は6回を数える。

戦前はベニート・ムッソリーニに心酔し、『改造』昭和16年(1941年)7月号に「ムッソリーニの夜」という一文をよせ、「その足跡はあまりにも超人的であり、神に近いとはいえ、無限に豊かな人間味に至っては実に汲めども尽きぬ泪である」と讃美した。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』は「ムッソリーニの礼讃詩人」という副題でそのことを指摘している[12]。戦後は平和運動に活躍した[13]

小説、児童文学など多彩な活動をしたが、戦争協力を非難され[12]、左翼的文学者となった[14]


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