深夜放送
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この項目では、ラジオ放送における編成・放送番組について説明しています。テレビの深夜放送については「深夜番組#テレビ」をご覧ください。

深夜放送(しんやほうそう)は、深夜から早朝の時間帯(0時 - 5時頃)における放送のこと。一般的にラジオ放送および、その枠内におけるラジオ番組全体を指す。

この項では、ラジオ放送における終日放送体制(ブランケット・カバレッジ)の構築についても扱う。
日本の深夜放送
歴史

日本では当初、民放AM局が深夜放送の人気の中心となった。AM放送は電離層の関係で夜になると受信範囲が広がる特性があった。

日本放送協会(NHK)のラジオ放送は1990年に深夜放送を開始した。
草創期

日本における深夜放送は、民間放送の開局と同時に始まった。1952年4月1日にラジオ東京(TBSラジオの前身)が占領軍[注 1]の軍人とその家族をターゲットとして放送を開始した『イングリッシュ・アワー』がその嚆矢とされる[1][2][3]。同月6日には文化放送が深夜1時から日本語アナウンスでの紹介による洋楽番組『S盤アワー』を開始している。

1959年の皇太子ご成婚1964年の東京オリンピックを境に新興メディアであるテレビが台頭してくると、ラジオ各局は生き残りをかけて若者向けの深夜番組の放送に力を入れるようになった[3]1959年10月10日[4]より、ニッポン放送では子会社「株式会社深夜放送」(フジサンケイエージェンシーの前身)が深夜から早朝の従来放送休止にあてていた枠を利用して、のちに『オールナイトニッポン』の前身となるディスクジョッキー(DJ)による音楽番組オールナイトジョッキー』の放送を開始した[2]。日本の放送史上初の24時間放送の実現でもあった[4]。その後、ラジオ関東(アール・エフ・ラジオ日本の前身)も深夜放送に参入した[2]

なお、この当時、終夜放送を行っていたのはニッポン放送(株式会社深夜放送)のみで、それ以外のいずれの局も、遅くとも3時頃には放送を終了していた。また、これらの番組は「大人」が対象であり、のちの若者を主要対象とする時代と編成方針が大きく異なった[5]
民放ラジオ「復活」

日本では、テレビ放送の開始とラジオの小型化(トランジスタラジオ)が、ライフスタイルと各放送波の関わりを大きく変えた。具体的には、テレビ放送は茶の間で、ラジオ放送は各自の部屋か仕事場で楽しむものとして定着しつつあった[5][6]。その反面、当時、ラジオだけを所有する人はラジオ受信料を支払う義務があったため、テレビ受信契約を結んだ上でテレビ・ラジオを所有するか、テレビもラジオも持たないかで消費傾向が分かれ、ラジオ受信契約数はテレビの普及にともなって減少した。これと比例するように、民間ラジオ放送局の業績に、一定の伸び悩みが生じた(ラジオ離れ#1960年代も参照)。これを打開するために各局が新機軸として打ち出した2大編成がワイド番組と深夜放送だった[5]
「深夜放送」黄金時代

折しも、労働者学生などの都市住民を中心に早朝まで起きている「深夜族」が増加し、放送に対する需要は高まっていた[2][3][7][8]。特に受験戦争の激化で若者が深夜まで勉強をするようになり[2]トランジスタラジオの普及も追い風になり[2][3]、勉強部屋にある唯一の娯楽であるラジオから流れる深夜放送に多くの若者が耳を傾け、大きな支持を受けるようになった[2][3][7][8][9][10][11]。若者はテレビでは知ることのできない新しい音楽などのカルチャーに触れた[8][10]。初期の深夜放送の特徴的なプログラムとしてリスナーからラジオパーソナリティへの悩み相談があった[2][3]。また深夜放送が若者の欠かせないツールとなった理由として"エアチェックがある[3][7][9]。当時の音楽ファン、若い世代にとっては誰もが経験したルーチンだった[3][7][9]

1965年、文化放送は初の若者向け深夜ラジオ番組として『真夜中のリクエストコーナー』を土居まさるのDJでスタートさせた[1][2][3]。この成功に刺激される形で、1966年にはラジオ関東が『オールナイトパートナー』(6月10日開始 同局はこれで終夜放送達成[12])、朝日放送が『ABCヤングリクエスト』(4月開始 - 1986年10月まで放送[注 2])、ラジオ大阪が『オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に!』(12月開始 - 1968年10月まで放送[注 3])を開始するなど、各放送局が相次いで深夜放送を開始した[1]。翌年の1967年には『パックインミュージック』(TBSラジオ)、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)が放送開始した[1][2][3]。1967年度のラジオ広告費は前年度より15.4パーセントの大幅な増額となり、その後も上昇した[5]

1968年4月にはNHKのラジオ受信料が廃止[1][13][14]されて、ラジオを所持するためのコストが大幅に下がり、若者を中心に個人でのラジオ所有が爆発的に広まっていった。その1968年には『ミッドナイト東海』(東海ラジオ)がスタートし、1969年には文化放送が『セイ!ヤング』を放送開始した[1]

また、ラジオネットワークの整備により、地方局でも地元で東京発の深夜放送の聴取が可能となった[注 4]。多くの地方局では、1時 - 5時帯に『オールナイトニッポン』『パックインミュージック』のいずれかをネットし、その直前となる21時ないし23時 - 翌日1時帯に自社製作の番組を編成して、若者向けの総合的な編成枠とした。この例に『アタックヤング』(STVラジオ 1970年開始)・『ジャンボリクエストAMO』(東北放送 1969年開始)等が知られる。AM放送の中波は深夜帯において広い範囲で届く(電離層反射の影響)ことから、これら地方発の番組や、ネットされていないキー局の番組でも、多くの地域でリスナーが存在し、全国区の人気獲得に至った。1970年前後当時、ラジオの深夜放送ファンのことを『みみずく族』と呼んでいたことがあった[15]

このように若者向けの番組が人気を博する一方で、深夜3時以降の時間帯に、長距離トラック運転手向けの番組が登場する。1968年スタートの『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』(文化放送)が先駆けとなり[3]1974年にはTBSラジオが『いすゞ歌うヘッドライト?コックピットのあなたへ?』をスタートさせ、早朝に近い時間帯で激しい聴取率獲得競争を演じた。

吉田拓郎を筆頭にフォーク/ニューミュージック系のシンガーソングライターたちは、最も大きな影響力を持つテレビを拒否したため[16][17]、深夜放送はプロモーション活動の一環として、欠かすことの出来ないものになった[9][18]亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[19]

このように深夜放送の大きな功績として、ディスクジョッキー(DJ)/ラジオパーソナリティ自身が深夜放送を足場に人気を博すケースや[17]、パーソナリティの紹介が世に出る切っ掛けとなったアーティスト[3]、パーソナリティが紹介した楽曲にリスナーからのリクエストが殺到し、これを切っ掛けに大ヒットに至ったケースもザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」や、かぐや姫神田川」、GARO学生街の喫茶店」など[3][20]、数多い[3][7][9][21]。また1980年代に入って言い始めたとされる"ハガキ職人"と呼ばれる人たちの中から芸能界に進んだ者も多い。

落合恵子の『セイ!ヤング』最後の放送となった1978年3月28日付の読売新聞夕刊に以下の記事が載る[22]。「深夜のアイドル"レモンちゃん"の引退ーこれで彼女が作った深夜放送の第二次黄金期も幕を閉じて次の新しい時代に移っていく(中略、落合の話)昭和40年(1965年)に始まった深夜放送ブームの中で彼女が『セイ!ヤング』に登場したのが昭和46年(1971年)10月(中略)ところで深夜放送は落合の引退でメンバー一新。『セイ!ヤング』は長谷川きよし吉田拓郎といった顔ぶれに。当時はアングラだったイメージがいまやメジャー番組となり、ヤングが聴くのは常識。当時はウン万円だった落合の月収もいまや推定年収ウン千万円。レモン色からバラ色?へ」などと書かれている[22]

AM深夜放送隆盛の結果、1978年8月の時点で、全国で30社が終夜放送を行うようになった[23]


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