深作欣二
[Wikipedia|▼Menu]

ふかさく きんじ
深作 欣二
映画評論』1962年1月号より
本名深作 欣二
別名義Kinji Fukasaku
生年月日 (1930-07-03) 1930年7月3日
没年月日 (2003-01-12) 2003年1月12日(72歳没)
出生地茨城県東茨城郡緑岡村
死没地東京都
国籍 日本
民族日本人
職業映画監督脚本家
ジャンル映画テレビ映画演劇
活動期間1961年 - 2003年
配偶者中原早苗1965年 - 2003年
主な作品
風来坊探偵シリーズ
ファンキーハットの快男児シリーズ
ギャング対Gメン
カミカゼ野郎 真昼の決斗
ガンマー第3号 宇宙大作戦
日本暴力団 組長』『血染の代紋
トラ・トラ・トラ!
仁義なき戦いシリーズ
仁義の墓場』『県警対組織暴力
やくざの墓場 くちなしの花
北陸代理戦争』『ドーベルマン刑事
柳生一族の陰謀』『宇宙からのメッセージ
赤穂城断絶』『復活の日』『青春の門
魔界転生』『道頓堀川』『蒲田行進曲
里見八犬伝』『火宅の人』『華の乱
いつかギラギラする日
忠臣蔵外伝 四谷怪談』『おもちゃ
バトル・ロワイアル

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
第6回蒲田行進曲
第10回火宅の人
第18回忠臣蔵外伝 四谷怪談
最優秀脚本賞
第10回『火宅の人』
第18回『忠臣蔵外伝 四谷怪談』優秀監督賞
第24回バトル・ロワイアル
優秀脚本賞
第2回柳生一族の陰謀
ブルーリボン賞
監督賞
第18回 『仁義の墓場
県警対組織暴力』 (1975年
第25回 『蒲田行進曲』 (1982年
その他の賞
第11回ゴールデン・アロー賞 映画賞
仁義なき戦い』 (1973年)第56回キネマ旬報ベスト・テン
日本映画監督賞
第37回毎日映画コンクール 監督賞
『蒲田行進曲』 (1982年)第7回日刊スポーツ映画大賞 監督賞
忠臣蔵外伝 四谷怪談』 (1994年)第20回おおさか映画祭 監督賞
『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1995年)

備考
受章
紫綬褒章1997年
勲四等旭日小綬章2003年
テンプレートを表示

深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年昭和5年〉7月3日 - 2003年平成15年〉1月12日)は、日本映画監督脚本家愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。
生涯映画芸術社『映画芸術』12月号(1964年)より

6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる[1]茨城大学教育学部附属中学校水戸第一高等学校日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。

1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち23作品でコンビを組み、ヒットを連発していく[2]。千葉を主演に据え置き演出した『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した[3][4][5]。日米合作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながらにんじんプロダクションと國光影業が製作した『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた[6]

1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録。『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』『バトル・ロワイアル』など、発表した一部の映画がヒット・話題作となった。テレビ映画では前述の『キイハンター』のほか、『傷だらけの天使』、『必殺シリーズ[注釈 1]』、『影の軍団II』などを演出している。92年の『いつかギラギラする日』では、大量の車、火薬、銃弾を消費したため、当初予算の3億円が11億円にまで膨張してしまった。

1997年(平成9年)、紫綬褒章受章[7]

2002年(平成14年)にはカプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。同年9月25日、前立腺ガン脊椎転移を公表し[7]、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。

2003年(平成15年)1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで長男・深作健太が監督を代行することとなった。7日、配給を担っている東映が会見を開き、健太と岡田茂が出席し、「翌月早々に復帰」と説明されたが、4日後の11日夕方には容態が悪化。妻・中原早苗と健太、菅原文太[7]、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦藤原竜也[8]、臨終に立ち会った。12日の午前1時、死去。72歳没。

15日、築地本願寺で通夜が営まれ、喪主を務める深作健太が選曲した20曲が流れるなか、弔問客が献花を行った[9]。中原早苗は終始、ハンカチを離さず悲しみの深さをうかがわせ、健太は弔問客に気丈に応対していたが、ロサンゼルスから駆けつけた千葉真一にねぎらいの言葉をかけられると、健太は涙をあふれさせていた[9]。弔問にビートたけし梅宮辰夫緒形拳津川雅彦富司純子三田佳子藤真利子渡哲也小林稔侍永島敏行風間杜夫平田満藤原竜也安藤政信八名信夫前田愛前田亜季竹内力高岡早紀薬師丸ひろ子夏木マリ宮本真希柴咲コウ加藤夏希南果歩渡辺えり子松田美由紀美輪明宏山田洋次崔洋一降旗康男沢井信一郎奥山和由らが参列した[9]

翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた[10]。千葉真一と[11]、菅原文太が[9]、それぞれ弔辞を述べ[9][11]、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった[9]。『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな越路吹雪の『バラ色の人生』、THE BLUE HEARTSの『1001のバイオリン』が流された[9]。深作はフリーとなっていたが[12]、東映は葬儀を全面的にサポートした[10]。墓所は川崎市春秋苑

2月7日に勲四等旭日小綬章を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。
作風

アクション映画ヤクザ映画以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』『おもちゃ』のような文芸、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』『宇宙からのメッセージ』『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた[13]。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:121 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef