この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年8月)
logo深井城
(大阪府)
深井城の推定地
城郭構造丘城
天守構造なし
築城主細川政賢か
築城年永正8年(1511年)
主な改修者不明
主な城主細川政賢
廃城年不明
遺構なし
指定文化財なし
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度32分2.725秒 東経135度29分14.68秒 / 北緯34.53409028度 東経135.4874111度 / 34.53409028; 135.4874111
深井城(ふかいじょう)は、大阪府堺市にあった日本の城。遺構などは存在せず、推定地として中区深井中町にあった観音山古墳が城跡として有力である。
本項では深井の合戦についても記述する。
概要宅地化された深井城推定地
深井城の遺構や正確な場所が明記されている古文献がなく推定地については議論され、正確な城郭は不明である。また恒久的な城ではなく、臨戦用の砦だった可能性もある。
堺市には大仙陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群があり、この周辺は高屋城や誉田城のように古墳跡に築城されていたケースが見受けられる。これにより、深井城の推定地として、深井中町にあった観音山古墳跡がベースとなり、そこに築城したと思われている。しかし、その古墳も全壊しており伝承レベルでしかない。1970年代にはわずかに土塁、台地などの遺構もあったようだが、現在は宅地、農地化が進んでその遺構も消滅したようである。
西村砦と東村砦東村砦/定の山古墳
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
深井城が古文書に記載されているのが、深井の合戦のみで細川政賢方の本拠地とした。これに対して細川高国方の本拠地としたのが、西村砦と東村砦である。 西村砦も古墳跡に砦を建設したと思われており、城ノ山古墳跡が有力である。現在は古墳、砦跡とも消滅し、宅地化されている。 東村砦も古墳跡に砦を建設したと思われており、定の山古墳跡が有力である。区画整理事業により、古墳も変形したが現在復元され、公園として整備されている。この定の山古墳は復元古墳であるため、山頂部に登頂することが可能である。 深井の合戦
西村砦
東村砦
西村砦の推定地
城ノ山古墳跡
東村砦の推定地
定の山古墳跡の頂上部
深井の合戦
戦争:両細川の乱
年月日:永正8年(1511年)7月13日
場所:深井城
結果:細川澄元軍の勝利
交戦勢力
細川澄元軍細川高国軍
摂津国人衆
指導者・指揮官
細川政賢
細川元常
山中為俊
畠山高国
遊佐順盛
戦力
7,000兵 - 8,000兵20,000兵
損害
不明300兵
両細川の乱
永正の錯乱
如意ヶ嶽