淮陽郡(わいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河南省周口市一帯の地域に設置された。 紀元前224年(秦の始皇23年)、秦の王翦が楚の陳県を攻め落とす[1] と、楚郡が置かれた。後に淮陽郡と改称された。 紀元前209年(二世元年)、陳勝が陳県を攻め落とし、張楚の都を置いた[2]。紀元前206年(漢の高帝元年)、項羽が18諸侯を分封すると、淮陽郡は西楚の9郡のひとつとなった。紀元前202年(高帝5年)、項羽が滅ぶと、韓信の楚国の一部となった。紀元前201年(高帝6年)、韓信が謀反の疑いを受けて淮陰侯に降格されると、没収されて淮陽郡となった。 紀元前196年(高帝11年)、皇子劉友が淮陽王となると、淮陽国が置かれた[3]。紀元前194年(恵帝元年)、淮陽王劉友が趙王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた。紀元前188年(恵帝7年)、皇子劉強が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前183年(高后5年)、劉強が死去すると、その弟の劉武が淮陽王となった。紀元前180年(高后8年)、周勃らが呂氏を打倒する政変を起こすと、劉武は恵帝の子でないとされて殺害され、淮陽国は廃されてまた淮陽郡とされた[4]。紀元前176年(文帝4年)、文帝の子の代王劉武が淮陽王となると、また淮陽国が立てられた。紀元前168年(文帝12年)、淮陽王劉武が梁王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[5]。紀元前155年(景帝2年)、景帝の子の劉余が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前154年(景帝3年)、劉余が魯王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[6]。紀元前63年(元康3年)、宣帝の子の劉欽が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[7]。成帝の元延末年に淮陽国は陳・苦・陽夏・寧平・扶溝・固始・圉・新平・柘の9県を管轄した[8]。王莽のとき、淮陽国は廃されて新平郡が立てられた。 後漢が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。39年(建武15年)、光武帝の子の劉延が淮陽公となると、淮陽国が置かれた[9]。73年(永平16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[10]。79年(建初4年)、常山王劉モが淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[11]。87年(章和元年)、劉モが死去した。88年(章和2年)、西平王劉羨が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた[12]。以後、隋の初年まで陳国あるいは陳郡と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・扶楽・武平・長平の9県を管轄した[13]。 隋初に陳郡は陳州の下にあり、583年(開皇3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・?水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・?陽の8県を管轄した[14]。 618年(武徳元年)、房憲伯が平定されると、淮陽郡は唐の陳州となった。742年(天宝元年)、陳州は淮陽郡と改称された。758年(乾元元年)、淮陽郡は陳州と改称され、淮陽郡の呼称は姿を消した[15]。
概要
脚注^ 『史記』始皇本紀
^ 『史記』陳渉世家
^ 『史記』高祖本紀
^ 『史記』呂后本紀
^ 『史記』漢興以来諸侯王年表
^ 『史記』孝景本紀
^ 『漢書』宣帝紀
^ 『漢書』地理志下
^ 『後漢書』光武帝紀下
^ 『後漢書』顕宗紀
^ 『後漢書』粛宗紀
^ 『後漢書』孝和孝殤帝紀
^ 『後漢書』郡国志二
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志二
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