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淮軍(わいぐん)は、清朝の重臣李鴻章が同治元年(1862年)に編成した地方軍である。湘軍と並べて湘淮と称される。 咸豊3年(1853年)に太平天国軍が安徽省に迫って来ると、李鴻章は朝廷の命令を受けて郷里の安徽省合肥で団練を作った。この団練は合肥が淮河のそばにあった事から「淮勇五営」あるいは「淮軍」と称し、幾度も太平天国との戦いにあたった。 咸豊8年(1858年)から李鴻章は曽国藩の湘軍幕僚となり、湘軍経営の補佐をしつつ自らの部隊指揮権も得た。咸豊10年(1860年)に曽国藩が両江総督になると李鴻章は淮揚水師を任せられ、淮河一帯で活躍した。咸豊11年(1861年)、湘軍は太平天国軍を破って安慶を占領した。 この年の終わりに太平天国軍が杭州を攻略して上海を脅かすと、地元の豪商層から銭鼎銘を通して救援依頼が曽国藩に寄せられた。そこで同治元年(1862年)に曽国藩から郷勇7000名を集めるよう命を受けた李鴻章は、旧淮軍の部将劉銘伝・周盛波・周盛伝・張樹声・張樹珊・呉長慶、曽国藩幕下の程学啓
変遷
成立
新たに編成された淮軍は急いで上海救援に向かうが、その途上には太平天国軍の勢力圏がある。そこで上海の中外会防局
はイギリスの汽船の7隻を雇って李鴻章の部隊を上海に運んだ。この時にはイギリスの中国派遣艦隊司令官ジェームズ・ホープが派遣した軍艦が護衛している。湘淮混成軍6500人を乗せたイギリス船は、長江の太平天国軍の勢力圏内を通り抜けて上海に到達した。上海に到着した李鴻章は上海の財政を掌握している呉煦から財権を奪い、月額40万両近い税収を確保[1]。西洋の武器を購入して淮軍の装備を整え、イギリス人を招聘して淮軍の訓練を行った。この結果、淮軍の樹字営・春字営は虹橋での緒戦で大勝した。李鴻章は自ら前線で指揮を執り、わずか数千人で李秀成の10万余り大軍に打ち勝った。これによって淮軍の名声は大いに高まった。
同年、李鴻章は江蘇巡撫に任命され、この地で淮軍を拡大し、西洋の新式装備を採用も進めた。これによって淮軍はその後2年間で6千人強から6万?7万人に拡大し、清軍の中で最も装備が充実した部隊となっていく。また淮軍は上海の外国人傭兵戦力である常勝軍とも連携して太平天国軍を攻撃した。同治2年(1863年)から3年(1864年)にかけて淮軍は蘇州、常州を陥落させ、湘軍と共に太平天国を滅亡させた。 太平天国を打倒した淮軍だったが、同治4年(1865年)4月に捻軍鎮圧を担当していたセンゲリンチン(僧格林沁)が戦死すると曽国藩が後任の欽差大臣に任命された。これに従って淮軍も捻軍の鎮圧にあたった。また、同治5年(1866年)冬に曽国藩が解任されると、李鴻章がその後を継いだ。 捻軍が東西に分かれてからは、西捻軍を左宗棠が鎮圧し、淮軍は東捻軍を鎮圧した。捻軍の鎮圧が完了したのは同治7年(1868年)の事である。
捻軍との戦い