淡谷 のり子
1930年代
基本情報
出生名淡谷 規
別名霧島のぶ子
淡谷のり子とその楽団
生誕 (1907-08-12) 1907年8月12日
出身地 日本
青森県青森市
死没 (1999-09-22) 1999年9月22日(92歳没)
日本
東京都大田区上池台
ジャンルシャンソン
流行歌
ポップス
職業歌手
担当楽器歌
レーベルコロムビア
テイチク
ビクター
公式サイト日本シャンソン館
淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年〈明治40年〉8月12日 - 1999年〈平成11年〉9月22日)は、青森県青森市出身の日本の女性歌手。
日本のシャンソン界の先駆者として知られ、愛称は「ブルースの女王」[1]。叔父は政治家の淡谷悠蔵[2]。 青森県立青森高等女学校中退→上京を経て東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学→後に声楽科に編入。同声楽科では、荻野綾子、久保田稲子に師事。 1929年(昭和4年)に同声楽科を首席で卒業[2]。同年春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)で歌唱し、「10年に一度のソプラノ」と絶賛された[2]。 1930年(昭和5年)にポリドールから『久慈浜音頭』で歌手デビュー[2]。翌1931年に日本コロムビアへ移籍し、いわゆる古賀メロディーの『私此頃(このごろ)憂鬱よ』[注 1]がヒットし、流行歌手としてその名が知られるようになった[2]。1935年(昭和10年)に発表した、シャンソン曲『ドンニャ・マリキータ』がヒットしたことから、日本におけるシャンソン歌手の第1号となった。 日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)に発売した『別れのブルース』が100万枚を超える大ヒットとなり、一気にスターダムへ駆け上がった[2]。翌1938年(昭和13年)に発売した『雨のブルース』は、満州の将兵たちに熱狂的に受け入れられるなどしてこちらもヒット[2]。1939年(昭和14年)に始まった第二次世界大戦中は、歌手として慰問活動を積極的に行い[2]、戦後を迎えた。 1953年(昭和28年)の第4回NHK紅白歌合戦に初出場と同時に紅組のトリを務めた[2](ただしトリに関しては異説あり)。この頃から、テレビのオーディション番組の審査員やバラエティー番組にも出演して活躍の場を広げたが、番組ではプロ意識の高さもあって辛口コメントをするようになる(後述)。 1971年(昭和46年)に第13回日本レコード大賞特別賞、1972年(昭和47年)に紫綬褒章などを受賞[2](受賞歴について詳しくは賞歴の欄を参照)。1979年(昭和54年)には津軽三年味噌(かねさ)の広告に出演し、淡谷が口にしたコピー「たいしたたまげた!」(青森の方言で「とても驚いた!」)は、当時の流行語にもなった。 1980年代から1990年代にかけて、フジテレビ「ものまね王座決定戦」の名物審査員として出演し、辛口評価を含めて若者からも人気となる。 その後85歳で新曲を発表するなど、晩年まで歌手として精力的に活動を続けた[2]。しかし1993年(平成5年)に脳梗塞で倒れた影響で、以後体調などが悪化して仕事を控えるようになった。 1999年、老衰のため自宅で死去[2]。享年92[2]。 淡谷は1907年(明治40年)に、青森県青森市の豪商「大五阿波屋」(だいごあわや)の長女として生まれた[3]。しかし、僅か3年後の1910年(明治43年)の「青森大火」によって店が焼失し、父は再建を目指すも放蕩癖が災いして[2]淡谷が10代の頃には実家が破産する。1923年(大正12年)に高等女学校を中退後、父に愛想を尽かした母[2]・妹と共に上京した。当時淡谷も母も声楽家を希望し、淡谷が三浦環のファンだったため「音楽教師になって、余暇で三浦のようなクラシック音楽を楽しむ女性になれれば」と考えて東洋音楽学校を志望した。しかし、校長の「声楽なんてお前さんには難しくて出来ないよ」との一声で同校ピアノ科へ入学することとなった[4]。 ピアノ科へ入学後、荻野綾子が担当する講義にて教則本を歌った後に彼女から「あとでちょっと来なさい」と声を掛けられ、数日後に声楽科への編入試験が行われることを知る。受験生は17名で合格予定者は1人という狭き門だったが「もし不合格でも予科からは君だけ。あとは本科(の学生)だから不合格でも少しも恥ずかしくない」と受験を薦められるも難色を示した[4]。試験当日、荻野から別の生徒を通じて「先生が『必ずいらっしゃい』と言っている」と告げられ、観念して試験会場に向かって受験すると、合格したのは淡谷だった[4]。これによって淡谷はピアノ科から声楽科へ編入し、荻野自ら指導を行う形でクラシック音楽の基礎を徹底的に学び、オペラ歌手を目指した。 しかし、実家が徐々に貧しくなっていったために学校を1年間ほど休学し、1924年3月から[2]絵画の裸婦モデル[注 2]を務めるなどして生活費を稼ぐ。当時の淡谷は「霧島のぶ子」と名乗っており[2]、同時期に淡谷の裸婦像を描いた画家として岡田三郎助、田口省吾、前田寛治がいる[5]。なかでも田口は、淡谷が音楽学校を休学していることを知ると学費を捻出するなど献身的にサポートした[4]。 1926年(大正15年・昭和元年)に東洋音楽学校に復学するが、荻野は1924年(大正13年)から同棲相手の深尾須磨子と共にフランスへ渡っており、淡谷への指導の後任としてリリー・レーマンの弟子でもある久保田稲子
略歴
人物
生い立ち?荻野との出会い
久保田との出会い?10年に一人のソプラノ