淡口 憲治基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県西宮市
生年月日 (1952-04-05) 1952年4月5日(72歳)
身長
体重173 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手
プロ入り1970年 ドラフト3位
初出場1971年5月25日
最終出場1989年10月28日
(日本シリーズ第6戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
三田学園高等学校
読売ジャイアンツ (1971 - 1985)
近鉄バファローズ (1986 - 1989)
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (1990 - 2005)
北海道日本ハムファイターズ (2006 - 2007)
東京ヤクルトスワローズ (2008 - 2012)
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淡口 憲治(あわぐち けんじ、1952年4月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、評論家。 神戸市立本山第一小学校時代には、作家の中島らもと同級生であった。三田学園では中堅手として活躍。2年時の1969年、一塁手の山本功児と共に春の選抜へ出場する。磯田雅士らの好投もあって準々決勝に進むが、堀越高の但田裕介に抑えられ惜敗[1]。1970年の選抜にも1年下の遊撃手、羽田耕一とクリーンナップを組んで連続出場するが、前年と同じく準々決勝で、笹本信二のいた鳴門高に敗れる[1]。1年下には羽田以外に、投手の甲斐富士男、捕手の中西清治がいた。 1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。 1974年頃から頭角を現した。 1975年には左翼手、右翼手としてレギュラーに定着、規定打席不足ながらも打率.293の成績を残す。 1976年には日本ハムから張本勲がトレードで移籍入団し左翼手に入る。その結果、同年は柳田俊郎、末次利光との右翼手のレギュラー争いが激化し、65試合に先発出場するものの出場機会は減少。10月12日に優勝のマジック1とした試合の4回裏2アウト満塁で安仁屋宗八の2球目のスライダーを叩いて10号本塁打を放ったが、これは同時に日本プロ野球通算700本目の満塁本塁打であった。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第6戦に山口高志から3点本塁打を放つ。 1977年は柳田真宏が打撃好調で右翼手に定着、さらに出場機会が減少した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全5試合に代打として起用されるが無安打に終わる。 1979年オフの長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。 1980年には張本、柳田がチームを去り、再び右翼手の定位置を獲得。規定打席には届かなかったが打率.294を記録した。 1981年のリーグ優勝にも貢献。同年の日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦の7回に、中押しとなる2点適時二塁打を放ちチーム日本一に力を添えた。 1983年には左翼手に回る。同年はプロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.302(13位)を記録した。西武ライオンズとの日本シリーズは不振が続いたが、第6戦に代打で1安打を記録している。 1984年以降は駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり、段々と出場機会が減少していった。
経歴
プロ入り前
巨人時代