?水の戦い
戦争:?水の戦い
年月日:太元8年/建元19年10月20日[注釈 1]
(383年11月30日)
場所:?水(現在の安徽省淮南市寿県の南東)
結果:東晋軍の大勝利
交戦勢力
東晋前秦
指導者・指揮官
謝石
?水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に?水(現在の安徽省淮南市寿県の南東)で激突した戦い。 華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、?族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、第3代皇帝苻堅が宰相王猛の助けを借りて太和5年(370年)11月に親征して前燕を滅ぼし、太和6年(371年)4月に苻雅と楊安を派遣して前仇池を服属させ、太元元年(376年)8月には姚萇と梁熙らを派遣して前涼を滅ぼし、12月には苻洛とケ羌を派遣して代を滅ぼし、遼東から中原・涼州などを獲得して華北統一を完成させた[1]。この時が前秦の全盛期であり、社会は安定・繁栄し、人口は2300万前後に達し、高句麗や新羅からは朝貢も行なわれた[1]。 苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分達の本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ?族を移すということを行った。また王猛のように?族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位に就けていた。苻堅はこのような処置により、領内に於ける?・鮮卑・匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし、王猛はこのやり方で民族対立が収められたとは思えず、漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険であるとの見方を持っており、たびたび苻堅に対して南伐を行わないようにとの進言を行った。 華北統一の1年前の寧康3年(375年)、王猛は「晋を攻めないように[2][注釈 3]。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた[2][注釈 3]。しかし苻堅はこれに従わなかった。 前秦と東晋の戦いは王猛存命の寧康元年(373年)9月、前秦軍が東晋領であった蜀に侵攻して併呑した事から始まった[1]。 本格的な侵攻は、太元3年(378年)2月に苻堅は庶長子の苻丕に命じて12万の大軍で東晋領の襄陽を攻めさせた事から始まる[3]。当時襄陽は東晋の梁州刺史で南中郎将であった朱序が守備していた。朱序はよく守ったが、太元4年(379年)2月に襄陽は陥落して朱序は捕虜となる。苻堅は朱序を赦して度支尚書(財政担当大臣)としている。その後、苻丕の前秦軍は更に東進して5月には広陵付近にまで迫った[3]。つまり東晋の首都建康にまで迫ったのであるが、これを見て東晋も?州刺史謝玄の軍勢が反撃して前秦軍はやむなく淮水の北まで押し返された[3]。だがこの戦いにより、前秦は淮水の北と襄陽を手に入れた[3]。 太元5年(380年)、前秦国内で苻洛が龍城で反乱を起こした[4]。この反乱は薊城から中山まで拡大したため[4]、前秦の南下はひとまず沈静化された。 東晋では大司馬桓温が寧康元年(373年)に死去すると、兵権は謝安と桓温の末弟の桓沖に委ねられていた[5]。謝安は前秦の勢力拡大、並びに北方や西方に迫る脅威に対抗するため、兄の謝奕の子すなわち甥の謝玄を将軍に任命し[5]、この謝玄の下で劉牢之らを参謀に登用して精強な北府軍を創設した[5]。 とはいえ、兵力は8万ほどであり[6]、前秦軍の半分にも満たなかった。
概要
事前の経緯
開戦
東晋の内部事情
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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