淀殿
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よどどの/あざいちゃちゃ
淀殿/浅井 茶々
『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)
生誕永禄12年(1569年[1]
死没慶長20年(1615年
別名淀の方、茶々、淀君、菊子
配偶者豊臣秀吉
子供豊臣鶴松秀頼
親父 : [通説では]浅井長政、母 : お市
親戚

兄弟 : 万福丸、万寿丸姉妹 : 茶々、
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淀殿(よどどの、永禄12年(1569年[注釈 1][注釈 2] - 慶長20年5月8日1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉側室[注釈 3]。位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。
概要

近江国戦国大名浅井長政の娘[注釈 4]。母は織田信長の妹・

同母妹に初(常高院京極高次正室)と江(崇源院徳川秀忠正室)がいる。

子には棄(鶴松夭折)と拾(秀頼)、猶女には完子[注釈 5]がいる。

乳母は大蔵卿局大野治長の母)・饗庭局(大叔母にあたる海津殿の次女)・大局(前田利家の弟にあたる佐脇良之の室)の三人が明らかになっている。
生涯
母と二人の父の死

近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時、父と祖父・久政は自害、兄・万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。

その後は伯父・織田信包のもとにおかれ、伊勢安濃津城または尾張清洲城[3]で保護されていたとされていたが、近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている(『渓心院文』)[4]。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、織田信長の岐阜城に転居することになる[5]

信長が本能寺の変で家臣・明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣・柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城(現・福井県福井市)に移る。

勝家が羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れると、市は勝家共々自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた[注釈 6]。また北の庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉興記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている[6]。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方である(『大雲山誌稿』)[7]。また、叔父・織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受け[8]安土城に住み、後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。もっとも、福田千鶴によれば、いずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の所在については不明である[9]
親の仇、秀吉の側室に妙教寺の境内にある淀古城の石碑

天正16年(1588年)ごろ、秀吉の側室となる。

天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになった[注釈 7]。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った[注釈 8]

なお、鶴松を産んだ時に高野山持明院へ父母の肖像画をおさめるが奉納者である淀殿の記名はない。これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものである[10]。秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。
関ヶ原の戦い「関ヶ原の戦い」も参照

慶長5年(1600年)に元五奉行石田三成大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛長束正家前田玄以)から書状を送っていることがわかる[11]。このことから淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える[12]。その後、大坂城に入った輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。

9月15日関ヶ原の戦いにおける徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。

慶長6年(1601年)になると「気鬱」が激しくなり、胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から薬を処方をされた(『玄朔道三配剤録』)[13]
徳川家康との対立、大坂の陣大阪城公園にある淀殿・秀頼自害の地の石碑

家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老五奉行の去った大坂城の主導権を握る。


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