出初式(でぞめしき、出初め式)とは、日本の消防関係者により1月初旬に行われる、仕事始めの行事である。消防出初式(しょうぼうでぞめしき、消防出初め式)とも呼ばれる。新春恒例行事の一つであり、「出初式」は新年の季語となっている[注釈 1]。
同種のものとして、警察の「年頭出動訓練」(警視庁では「年頭部隊出動訓練」)がある。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 武家火消による出初
2.2 町火消による初出
2.3 消防組による出初式
2.4 自治体消防による出初式
3 式次第
4 ギャラリー
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
出初式の起源は江戸時代の火消による出初(でぞめ)・初出(はつで)であり、現代では消防吏員、消防団員などの消防関係者によって行われる。主催については、各市町村ごとや消防本部・消防組合(一部事務組合)ごとなど地域によってさまざまである。江戸時代から明治時代にかけては1月4日に行われていたが、現代では1月6日の開催が恒例である[注釈 2]。 出初式では一斉放水・避難救助などの消防演習、梯子乗り・木遣り歌など伝統技能の披露、消防団・消防車のパレード、消防職員・消防団員・消防功労者に対する表彰などが行われ、そのほか地域によってさまざまな行事が行われる。 出初式の歴史は江戸時代の万治2年1月4日(1659年2月25日)、江戸の上野東照宮で定火消によって行われた出初がはじまりと伝えられる。明治維新後、明治8年(1875年)1月4日に第一回東京警視庁消防出初式が行われ明治32年(1899年)には「消防出初式順序」が制定された。昭和4年(1929年)1月6日には昭和天皇臨席のもと、特設消防隊と全国消防組の親閲式が行われている。 江戸時代の江戸では火事が頻発したため(江戸の火事)、江戸幕府によって消防組織である火消が制度化されていった。まず制度化されたのは武士による火消(武家火消)であり寛永20年(1643年)、大名に課役として消防を命じた大名火消が制度化された。しかし明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火では火勢を食い止めることが出来ず江戸城天守閣を含む江戸の大半が焼失、3万人から10万人と推計される犠牲者を出し江戸の歴史上最大の被害となった。 そのため明暦の大火翌年の万治元年(1658年)、幕府直轄の新たな消防組織として定火消が制度化された。4000石以上の旗本から4名(秋山正房 以降、毎年1月4日に上野東照宮で定火消による出初が行われるようになり次第に儀式化していった。出初は大名火消によっても行われ、派手な装束と勇壮な活躍で知られた加賀鳶の出初では梯子の曲乗りが衆目を集めた[4]。 享保3年(1718年)、南町奉行の大岡忠相が主導し町人による消防組織である町火消が制度化された。享保5年(1720年)には江戸の町を20-30町ごとに分けて1組とし、隅田川から西を担当する「いろは組」47組(のちに1組増加して「いろは四十八組」となる)と、東の本所・深川を担当する16組の火消組合が設けられた。 町奉行の支配下におかれ町人地の消防を担当するために設けられた町火消であったがその能力が認められるに従って活動範囲を拡大し、武家地をはじめ米蔵・橋梁などの重要地の消防が命じられ江戸城の火事にも出動するようになった。
概要
歴史
武家火消による出初
町火消による初出
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