海_(ドビュッシー)
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《『海』管弦楽のための3つの交響的素描》(うみ、フランス語: La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre)[注 1]は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシー1903年から1905年にかけて作曲した管弦楽曲である。副題の付いた3つの楽章(第1楽章「海上の夜明けから真昼まで」?第2楽章「波の戯れ」?第3楽章「風と海との対話」(1. De l'aube a midi sur la mer?2. Jeux de vagues?3. Dialogue du vent et de la mer))で、演奏所要時間は23分?24分[3]
作品は、楽譜を出版したデュラン社の経営者ジャック・デュラン(Jacques Durand)に献呈されている[3][注 2]
着想サティが撮影したドビュッシー(左)とストラヴィンスキー(1910年)。部屋の後方に北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られている。『冨嶽三十六景』?「神奈川沖浪裏」

1905年にフランスで出版された『海』初版のオーケストラスコア [注 3]の表紙デザインには、ドビュッシー自身の希望により、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の1つ「神奈川沖浪裏」(正確にはその左半分の大きなの部分)が用いられた[8]。ドビュッシーは若い頃、後に オーギュスト・ロダンの愛人となるカミーユ・クローデルと親しくしており、彼女から北斎の版画や日本美術についてレクチャーを受けたとされる[9]。また、彼の自室にはオディロン・ルドンの石版画やカミーユ・クローデルの彫刻などとともに北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られていたとされ[10]、実際にそのことを示す写真も残されている。

これらの事実から、ドビュッシーの『海』は「北斎の浮世絵にインスピレーションを得て作曲された作品」として紹介されることがあるが[11]、実際には創作における関連性を明確に裏付ける史料の存在は確認されておらず[12]、あくまでも憶測の域を出ない。

また、カミーユ・モクレール(英語版)が1893年に発表した中篇小説『サンギネール諸島付近の美しい海』も、『海』との関連が指摘されることがある[13]。なぜなら『海』の第1楽章「海上の夜明けから真昼まで」には、構想の初期段階から完成間際までの約1年半にわたり、モクレールの小説と全く同名の「サンギネール諸島付近の美しい海」という副題がつけられていたからである[13]。ドビュッシーはモクレールとの面識があった上[注 4]、同小説が掲載された『エコー・ド・パリ』紙も当時購読しており[15]、この小説の存在を知っていた可能性は高い[14]

小説の筋書きは、地中海で嵐にあった船乗りが架空の3つの島々を順に訪れるというもので、その行程は「若さ」や「生命」が「老い」や「滅び」に向かう様子を寓意的に表現している[13][注 5]。絶望的な、いわゆる「バッドエンド」で終わる物語であり、ドビュッシーの作品とは全体の色調がかなり異なっている[16]

両作品の関係については、いずれも全体が三部構成をとっており、時間の推移を表現しているという共通点が見られることから、ドビュッシーが小説から何らかのインスピレーションを得たとする説がある一方[17]、「血を流すことを好む、残忍な」を意味する「サンギネール」(Sanguinaire)と、「美しい」という言葉のギャップの面白さから選ばれたに過ぎないとする説もある[18]。いずれにせよ、北斎の場合と同様、それを客観的に検証できる史料は存在せず、やはり憶測の域を出ない。

ドビュッシーは多くの書簡や著述を残しているが、『海』については多くを語っていないため、北斎やモクレールの作品との関連に限らず、創作の核心部分は秘められたままになっている[19]
『海』作曲当時のドビュッシー

当楽曲は、前述のとおり1903年から1905年にかけて作曲された。この時期にドビュッシーは次のような状況に置かれていた。
作曲家としての名声『ペレアスとメリザンド』の1シーン

1902年に初演されたオペラペレアスとメリザンド』の成功は、フランス国内におけるドビュッシーの知名度を飛躍的に高めた[20][注 6]。「ペレアス」は初演後もたびたび再演され、新聞社は「ペレアストル」「ドビュッシー主義者」と称されるドビュッシーの支持者たち[22]の、演奏会場における振る舞いを記事に取り上げ、ドビュッシーを「新しい宗教の首領」に例えた[23]。ドビュッシー自身はこのような事態に困惑したが、彼の存在は既に社会の注目の的となっており、新聞各社はドビュッシーの動向を常に監視し、作曲の進捗状況に関する未確認情報までもが記事にされた[24][注 7]

「ドビュッシー主義者」たちは「ペレアス」の延長線上にある新作が発表されることを望んでいたが、ドビュッシー自身には「二匹目の泥鰌」を狙うつもりは毛頭なかった。エドガー・アラン・ポーの短編に基づくオペラ『鐘楼の悪魔』(未完)や『海』の構想を練っていた頃、ドビュッシーは アンドレ・メサジェ [注 8]に宛てた1903年9月12日付の手紙において次のように述べている。

親切にも私がけっして《ペレアス》から抜け出られないだろうと期待している人々について言えば、彼らは注意深く目をふさいでいます。ですから、そんなことになれば、もっとも遺憾なことはまさに「繰り返す」ことだと私は考えていますから、すぐさま自室でパイナップル栽培でも始めるだろうということが彼らにはまったく分からないのです。 ? ドビュッシー、フランソワ・ルシュール 笠羽映子訳『ドビュッシー書簡集』音楽之友社、1999年11月20日、ISBN 4-276-13164-2、183?184頁より引用
人生の転機エンマ・バルダックの肖像画

ドビュッシーは、1899年に結婚したロザリー・テクシエ(愛称リリー)という11歳年下の妻がいたが、『海』を作曲中の1904年に銀行家夫人で同い年のエンマ・バルダックとの仲を深め[注 9]、ついには不倫の間柄となった[注 10]。ドビュッシーは7月にリリーを実家に送り返すとエンマと逃避行に旅立ち、イギリス海峡にあるジャージー島[注 11]ドーヴァー海峡に面したノルマンディー地方のディエップを順に巡り[注 12]、9月下旬にパリに戻った。


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