海龍元生
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海龍 元生

基礎情報
四股名海龍
本名山田 元紀
愛称ゲンキ、ヤマ
生年月日 (1990-03-01)
1990年3月1日(34歳)
出身和歌山県海南市
身長178.0cm
体重139.9kg
BMI44.2
所属部屋田子ノ浦出羽海
得意技突き・押し
成績
現在の番付引退
最高位東幕下2枚目
生涯戦歴408勝367敗10休(113場所)
優勝幕下優勝1回
データ
初土俵2005年3月場所
引退2024年3月場所
引退後世話人
趣味漫画
備考
2024年3月27日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

海龍 元生(かいりゅう げんき、1990年3月1日 - )は、和歌山県海南市出身で、出羽海部屋(入門時は田子ノ浦部屋)に所属した元大相撲力士。本名は山田 元紀(やまだ げんき)。身長178.0cm、体重139.9kg、血液型A型。最高位は東幕下2枚目(2013年9月場所)。現在は世話人を務める。好物は焼肉、ソップ炊きのチャンコ。趣味は漫画[1]
来歴

入門前の相撲経験は小学4年次の1年間であり、その頃は大会前に稽古する程度であった。当時から頭で当たることが苦手であったことで相撲に自信が無くなり5年次には見学だけに留まり、さらに6年次には道場通いそのものをやめてしまった。ところが、6年次に田子ノ浦が勧誘にやってきた際に山田は思わず入門を直訴。3年後に入門する約束を交わし、中学時代はサッカーに打ち込んだ[2]。中学校卒業直前に田子ノ浦部屋に入門し、2005年3月場所で初土俵を踏む。入門直後から「海龍」の四股名を名乗った。同期生には若ノ鵬大道旭日松飛翔富士らがいる。

2005年5月場所で初めて番付に名前が載り、序ノ口を2場所で通過したが、序二段に初昇進した同年9月場所を全休し、翌場所は再び序ノ口。序二段の番付で初めて土俵に上がったのは2006年1月場所である。それまで前ミツ相撲を取っていたが幼少期から頭から当たることが苦手であり序二段に定着した頃から限界を感じ、以降突っ張り主体の相撲の指導を受けるようになった[2]

2010年1月場所で幕下に初昇格するといきなり6勝1敗の好成績をあげるが、その後は2場所連続負け越しで三段目に降格。同年11月場所で再度幕下に昇進してからは定着し、幕下の中位から下位の土俵が続いていた。2012年2月13日に師匠の田子ノ浦親方(元幕内久島海)が急死すると所属していた田子ノ浦部屋が閉鎖になったため、出羽海部屋へ移籍することになった[3]。移籍後初めての本場所だった同年3月場所は、亡き前師匠に対する特別な思いを抱いて挑み、連勝が続く。11日目の6番相撲で千代皇を破って自身初の6連勝とすると、13日目の7番相撲で十両昇進のかかる鬼嵐との6戦全勝対決を制して幕下優勝を果たした[4]。翌5月場所は自己最高位である東幕下4枚目の地位で迎えたが、2勝5敗で負け越し。1年後の2013年7月場所では、東幕下15枚目で土付かずの6連勝とし、最後の7番相撲で勝って7戦全勝優勝とすればついに新十両昇進が決まるという状況になったが剛士に敗れ、2度目の幕下優勝及び新十両の好機を逸した。翌9月場所は自己最高位を更新する西幕下3枚目の地位で再び新十両を目指すが、13日目に組まれた十両の北?磨との実質的な入れ替え戦に敗れて負け越し、再度新十両昇進の好機を逸した。それからも幕下の一桁番付に上がっては負け越して出直しとなる場所が続いていたが、西幕下7枚目で迎えた2015年9月場所、東幕下5枚目で迎えた翌11月場所を共に4勝3敗と勝ち越し、2016年1月場所は自己最高位を更新する東幕下2枚目で臨んだ。しかし1勝6敗と大幅に負け越してまたも出直しとなった。2016年9月場所からは6場所連続で幕下の一桁番付を維持したものの、十両昇進は果たせなかった。

2024年3月場所限りで現役を引退し、日本相撲協会に世話人として採用された[5]。本人は関取昇進を未だに諦めていなかったが、世話人就任の話があったため引退に気持ちが傾いたという。また、師匠が部屋の出世頭の御嶽海の引退後を考え、そのサポート役として世話人として協会に残したという話もある。

4月10日に断髪式が行われた。ずっと付け人を務めた相手であった部屋の御嶽海や同じ部屋だった碧山などが鋏を入れ、止め鋏は移籍後の師匠となった2代小城ノ花の出羽海が入れた[6]
人物

部屋公式ホームページによると、好物は肉、憧れの芸能人は
所ジョージ、趣味は食事と飲酒、座右の銘は「水滴石穿」[7]

エピソード

2005年9月場所直前には急性腎不全で入院生活を送っていたが、相撲教習所の卒業が懸かっていたため病院を抜け出して教習所への通学をした経験を持つ。
[8]

幕下優勝を決めた2012年3月場所は序二段の碧己真(春日野部屋に移籍)が序二段優勝、三段目の碧の正(出羽海部屋に移籍)も、希帆ノ海との同部屋三段目優勝決定戦に進出するなど、場所前に師匠が急逝したため閉鎖された旧田子ノ浦部屋勢の大半が大活躍し、亡き師匠への弔いを果たした場所でもあった。

東幕下10枚目だった2012年7月場所は、13日目の若乃島戦までで7番相撲を取り終え、2勝5敗としていたが、関脇豪栄道の途中休場により、千秋楽に相撲を取る予定の人の数が奇数となってしまったため、千秋楽に八番相撲が組まれることになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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