この項目では、金の皇帝について説明しています。南朝斉の皇帝については「蕭昭文」をご覧ください。
海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王斡本(宗幹)の次男。従弟にあたる第3代皇帝熙宗を殺害し、帝位を簒奪したが、自身も部下によって殺害された[2][3][4][5][6]。第5代世宗即位後、廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される[4]。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。「荒淫の人」として知られる[4][6]。 宗室の子である故をもって天眷3年(1140年)には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王斡啜(オジュ、完顔宗弼)の軍に派遣されて軍職を務めた。皇統4年(1144年)には中京留守となって前線を離れ、その後尚書左丞・右丞相など宰相格の重職を歴任した。堂々たる容貌であり、文官としても武将としても優れた才能を発揮し、一方で大いなる野心を抱いた。 皇統9年(1149年)、皇帝であった従兄の熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣ら[注釈 1]と謀って熙宗を殺害し、自ら皇帝に即位した[2][3][4][5][6]。即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている[6][注釈 2]。 金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った[3][6]。その一方で、猜疑心が強く残忍な性格で、天徳4年(1152年)には皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗本)と烏帯(宗言)ら大叔父の太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清した。
生涯