海軍飛行予科練習生
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海軍飛行予科練習生の制服

海軍飛行予科練習生(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:海󠄀軍飛行豫科練󠄀習生、かいぐんひこうよかれんしゅうせい、英語: Naval Aviator Preparatory Course Trainee)とは、大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つ。志願制。予科練(よかれん)の略称で呼ばれるケースが多い。
歴史
戦前

軍隊が航空機利用し始めた時点では必要とされる能力の高さから操縦訓練は少年期から開始するべきという考えが提唱され、アメリカでは1907年からFlight cadetを、イギリスでは1919年クランウェル空軍士官学校を創設した。この制度で優秀な操縦士が誕生したことで各国の軍では年少者を操縦士候補生として採用し養成する制度が広まった。

日本では1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、1930年昭和5年)6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。

1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12年)、更なる幹部搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は満16歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。海軍省は甲飛の募集の際、待遇も進級も「海軍兵学校に準ず」と喧伝し、受験資格も海軍兵学校の応募資格(旧制中学校4学年修了程度)と遜色なかったために、海軍が新設した航空士官学校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。ところが、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。それらの低待遇に失望した練習生たちは、飛行隊では決して口にできない不満を、故郷に帰って発散し、「予科練には来るな」そんなことを地元の出身中学で堂々と言ってはばからぬ練習生が後を絶たず、不満はさらに膨れ上がり、ついには第三期生がストライキを起こすという、前代未聞の事態に発展してしまった。人気を回復するため海軍省は苦肉の策として不評であった「水兵服」を廃止し、軍楽兵と同様の短ジャケットに「桜に錨」の七つボタン、下士官型軍帽を制定した。ちなみに当時の甲飛募集の内容は「きわめて短年即ち僅々約5年半にて既に海軍航空中堅幹部として、最前線に於いて縦横無尽にその技量を発揮するのである。次いで航空特務少尉となり、爾後累進して海軍少佐、中佐ともなり得て、海軍航空高級幹部として、活躍することができるのである」であった。

1940年(昭和15年)9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、予科練習生の一種として取り込み、丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更した。
戦中1942年当時の予科練生

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。甲飛1期生-11期生の採用数は各期200名-1000名程度であったが、12期生4000名、13期生以降は、各期3万人以上の大量採用となる。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊三重海軍航空隊鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。また、1944年(昭和19年)10月頃に、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵台湾人日本兵を対象にした特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)が新設され、特丙飛1期が乙飛24期と同じ12月1日に鹿児島空へ配属された[1]

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核となり、多くが命を落としている。

1944年(昭和19年)夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて『どかれん』と呼び自嘲気味にすごした[2]。また予科練教官もこれらの任務に割り当てられることになり、三重の予科練では教官が朝鮮半島出身者を指揮し、軍艦を隠すための穴を掘らせるなどの土木工事が行われた。人材の質についても当初のようなエリートである航空機搭乗員を養成するという意義が薄れ、大量採用を目的に素行不良者も受け入れた結果、市民からは与太者(よたもの)にかけて『よたれん』と呼ばれていたという[3]。また慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に在籍していた酒井雄哉は落第生で卒業が危ぶまれたため、教授の薦めで予科練に入隊しているなど、成績不良の学生の受け皿として使われる状況だった。


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