海軍艦政本部(かいぐんかんせいほんぶ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:海󠄀軍艦政本部)とは、海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った大日本帝国海軍の官衙(官庁)であり、海軍省の外局の一つ。艦政本部長には、原則として海軍中将が就任した。1923年(大正12年)以降は研究機関として海軍技術研究所を併設[1][2]。また欧米の海軍技術研究や国内造船造兵企業の指導監督のために造船造兵監督長・造船造兵監督官を派遣した。1945年(昭和20年)11月の海軍省廃止と共に廃止された。 1938年から1943年までの5年間、上記の7部門に分かれていた。 1900年に設置した当時は、造兵(第一部)・燃料(第二部)・造船(第三部)・造機(第四部)であった。1915年に造兵部門を細分化し、燃料部門を廃止して5部に再編され、以後は部の新設と廃止を繰り返している。この際、部は欠番が出ないように(たとえば第二部を廃止する場合、第二部が欠番となるのではなく、末尾の第七部を新しい第二部にスライドして第七部を廃止する)番号が頻繁に変化する。 そのため、最後に設置された潜水艦部の場合、第七部(1920年)→第三部(1923年)→第二部(1927年)→第五部(1928年)→第六部(1933年)→第七部(1938年)と頻繁に番号が変化している。しかし変わるのは部署の番号のみで、分掌も変わらず、スタッフも多くが留任している。 1943年に第七部が海軍省直轄の潜水艦部として独立したため、終戦時には第六部までの6部制となったほか、商船の戦時急造を推進するために臨時商船班を増設した。同様の事例に、1919年に新設した第六部(航空部門)がある。新設から4年後の1923年に航空本部が開かれたため、この中核組織として第六部が譲渡された。
太平洋戦争時の組織
第一部:砲熕部(大砲)
第二部:水雷部
第三部:電気部(無線、電探)
第四部:造船部
第五部:造機部(機関)
第六部:航海部
第七部:潜水艦部
沿革史
明治13年11月11日 艦船・兵器開発を管轄するため、海軍省に「主船局」を設置する。
明治17年12月16日 機関・燃料・機械工学を管轄するため、外局として「機関本部」を設置する。
明治19年1月29日 主船局と機関本部を統合し、海軍省に「艦政局」を設置する。
艦政局の諮問機関として「造船会議」「兵器会議」を設置する。
明治22年3月8日 艦政局を「第二局」に改称する(軍務局を第一局、経理局を第三局)。
造船会議と兵器会議を統合し「技術会議」に再編する。
明治26年 下瀬雅允技師が発明した「下瀬火薬」を採用する。
5月20日 第二局を廃止し、分掌を第一局に移管する。
明治31年3月30日 造船造兵監督官令が制定される。
小田喜代蔵中佐(軍令部部員)が発明した「小田式自働繋維器」を採用する。
明治33年5月20日 外局として「海軍艦政本部(初代)」を設置する。
明治33年 伊集院五郎少将(軍令部次長)の研究グループが開発した「伊集院信管」を採用する。
明治34年 宮原二郎機関総監(艦政本部第四部長)が開発した「宮原式水管缶」を採用する。