海軍宮古島飛行場
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宮古島海軍飛行場
(平良飛行場)
沖縄県宮古島市
十・十空襲と宮古島平良飛行場
(1944年10月10日撮影)
日本軍が宮古島で建設した飛行場
種類沖縄の旧日本軍施設
施設情報
管理者日本海軍
歴史
建設1943年
(図1) 日本海軍第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11) から。平良飛行場は左上に示されている。1944年の十・十空襲で米軍が撮影した空中写真をもとに解析された平良飛行場。イギリス太平洋艦隊第57任務部隊による滑走路の爆撃 (1945年4月)イギリス海軍アーカイヴスからの画像。「宮古島の平良飛行場。滑走路は毎日爆撃を受け、クレーターができて使用不能になっている。」(1945年)

宮古島海軍飛行場 (平良飛行場) (みやこじまかいぐんひこうじょう・ひららひこうじょう) は旧日本海軍沖縄県宮古島市平良に建設した飛行場。米軍の接収と管理を経て現在の宮古空港となる。
概容
日本軍の宮古島飛行場計画

日本陸軍と海軍は宮古島の三カ所に飛行場の建設を進めた。滑走路は合計で6本となる予定であった[1]

沖縄の旧日本軍施設現在
10海軍宮古島飛行場(平良飛行場)宮古空港
11陸軍宮古島中飛行場(野原飛行場) 空自宮古島分屯基地 / 陸自宮古島駐屯地
12陸軍宮古島西飛行場(洲鎌飛行場)

海軍宮古島飛行場(平良飛行場)

このうち海軍飛行場は平良に設定されたため「平良飛行場」とも呼ばれ、1944年11月の日本海軍第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(図1) によると三本の滑走路を有する計画であった[1]

東西に走る滑走路 1300x500 - 副滑走路

南北に走る滑走路 1350x500 - 副滑走路

横断する滑走路  1500x200 - 主滑走路

構造的には、主滑走路に副滑走路2本が交差する連結式で、それを取り囲む6kmあまりの誘導路と掩体(駐機場)をもつ本格的な航空基地で あった[2]。建設には多くの住民や学徒が動員されたが、飛行場の封じ込めをねらう連合国艦隊の攻撃のたびに決死の補修工事を行うも、ほとんど使用されることなく終戦を迎えた。
空襲と占領計画

1944年10月10日、午前と午後に米軍機編隊が襲来 (十・十空襲)。宮古島の陸海3ヵ所の飛行場からは応戦に飛び立つこともなく、9機が撃破された。10月13日午後にも海軍兵舎などが撃破された。十・十空襲の米軍機が撮影した空中写真は徹底的に解析され、詳細な戦略マップの作成に利用された。

1945年2月以降、連合艦隊は八重山群島の飛行場の封じ込めを目標とし、日常的に宮古島への空襲を繰り返す。海軍飛行場の滑走路は連日爆撃を受け、そのたびに住民や学徒を動員して連日の弾薬跡の埋め戻し作業が行われた[3][4]。空襲は大体昼ありました。爆撃で穴があきます。滑走路の両側にある松林などにねむったりして待機していて、夕方になると、その穴うめにかかりました。 ? 「特設工兵第505部隊長は何をしたか」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 11945年5月、米軍の沖縄上陸を支援するイギリス太平洋艦隊第57任務部隊による爆撃中の航空写真。艦載機アベンジャーによる空爆で平良湾に避難していた日本の船舶は爆破された。(英帝国戦争博物館)1945年3月-4月、平良の港湾と無線局を標的にした市街地への攻撃 (英帝国戦争博物館)1945年5月4日の航空写真。イギリス太平洋艦隊の部隊が宮古島平良の町の南側付近にある日本軍施設を爆撃砲撃。(英帝国戦争博物館)

連合艦隊は滑走路の状態を連日監視し、弾孔が埋められていれば直ちに爆撃を開始した。イギリス太平洋艦隊の空母フォーミダブルアイスバーグ作戦記録では、前日の空爆で滑走路にあいた弾孔の状態を確認しながら先島群島すべての日本軍飛行場の封じ込めを徹底させていたことがよくうかがわれる[5]。4月17日。… 最初の攻撃は06時30分に離陸。宮古島では(前日の爆撃による)滑走路のクレーターを埋めた形跡が見られたが、石垣島では埋められていなかったため、攻撃は宮古に集中させた。宮古での爆撃で、最初の二波で全ての飛行場を使用不可能とさせ、三波目で市庁舎と兵舎を攻撃した。 ? A History of 1842 Naval Air Squadron (Royal Air Squadrons 1938 to Present)

米軍は、沖縄占領計画 (アイスバーグ作戦) の当初は、本土攻撃のための基地拠点として宮古島喜界島を確保する計画を含んでいたが、このフェーズ3計画は四月下旬に取りやめられた。沖縄島上陸以降、日本の本土攻略のための基地拠点は沖縄島で事欠かないことが実証されたためである[6]
土地の接収と立ち退き

1943年5月頃から日本軍による飛行場の用地接収が始まる。9月、日本軍は七原、屋原、越地の土地約175ha (土地所有者 255人) を接収し、海軍飛行場の建設を開始する。接収に関しては地主との話し合いもなく、一方的な軍命令による強制接収であり、住民は強制的に立ち退かされ、土地の建物や耕作物などの物件に対する補償は一部現金で支払われたが、ほとんどは強制貯金に回された。土地については売買契約もなく地代の支払いもなかったという[2]

1944年1月、海軍佐世保鎮守府は宮古島を含む西南諸島の既設の海軍飛行場の整備拡張を急がせた。防衛担当軍の視察で「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と判断された宮古島には、3カ所の飛行場が建設された。土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となった。 ? 総務省「宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)」

七原、屋原、越地の三つの集落の土地の強制接収が行われ、移転先は冨名腰(ふなこし)原、原野、袖山が供与された。収穫前の穀物も無残にひき潰され、住み慣れた土地を奪われ、人々は「ナナバリヤナナツンバリ、ヤーバリヤヤーツンバリ」(七原部落は七つに割れ、屋原部落は八つに割れ」と嘆いた。また手にするはずであった地代の大半が強制貯金にまわされ、戦後、紙くずとなったうえに、土地は国有地化され、住民のもとに帰ってくることはなかった。

上陸戦はなかったものの、3万の日本兵と基地で要塞化された宮古島の「生と死が隣り合わせるもう一つの戦争」[7]は、終戦になっても終わることなく、深刻な食糧難とマラリアが猛威をふるい、おびただしい兵士と住民の命を奪った。敗戦後も「友軍」は食糧の徴用を住民に強いたため、住民はさらに困窮した状態となった。日本兵は1946年3月頃から引き揚げた。

その後、平良飛行場のために土地を接収され袖山(現・西原)に移住を強いられた人々は、1946年夏から「マラリアの生き地獄」[8]にみまわれ、結局、袖山部落は廃墟となった。本来はマラリア有病地ではなかった平良市北部の西原、添道、大泊ですらこのような状態であった。そのうちに葬列に加わる人もいなくなりました。マラリアにおかされた家族同士で、借りた馬車に積んでいって形ばかりのとむらいをしました。金はない。医者はたのめない。食いものは足りない。一日に六、七人死ぬ日もでてきました。ネコが三味線をひいて踊っていた。といううわさは、袖山の人々をふるえあがらせました。このままでおれば、部落の人は根絶やしになってしまう。そう思いました。別の集落にうつっていった親類の人たちも、袖山を棄てることをすすめるようになりました。九月に人々は、袖山部落を放棄しました。ちょうど追われて移り住んでから三年目であります。 ? 砂川明芳「袖山部落考」沖縄県史 戦争証言 宮古島篇

また、土地を接収され冨名腰原に移住させられた人々の生活も悲惨な状態であった[9]。昭和十八年九月ごろであったとおぼえています。夕方、直接兵隊によばれて部落の青年会場へ出かけて行った父(島尻)の帰って来てからのはなしでは、現在住んでいる家屋敷や畑のすべてが飛行場予定地に入っているので立ち退かなければならない、ということでした。ほとんど考える余裕も与えられなかったと思います。その日から三日ほどしてからです。ぼくの家のずっと西側の方から何百名かの人夫が来て、地ならし作業をはじめました。とうとう立ち退くことになるのかと思うと、悲しいというだけでなく、やはり腹のたつ思いでありました。父は篤農家で、畑は五町歩くらいありました。収穫を間近かにした砂糖キビをそのまま捨てるのも相当つらいことであったと思います。そのまま何もかも放ったらかしにして、追われるように市街地に近い冨名腰部落に引越しました。


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