海賊
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この項目では、海上で船舶に対する襲撃行為を行う者について説明しています。その他の用法については「海賊 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「海賊船」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「海賊船 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
海賊旗ジョリー・ロジャージョン・ラカムの海賊旗黒髭の海賊旗

海賊(かいぞく、英語: pirate)は、海上航行する船舶襲撃し、暴行略奪など航海の安全を脅かす行為をする者のことである[1]
歴史上の海賊フランス海賊は、1555年にスペインの貿易拠点であったハバナを襲撃した。

例えば、パクス・ロマーナは、ローマ帝国海軍が地中海の覇権を掌握したとき成立し、それを維持できない段階で消滅した。日本においても、織田信長豊臣秀吉徳川家康は、海賊の取り締まりを重視し、これによって中世から近世への扉が開かれた。ヨーロッパでは、イーリアスオデュッセイアなど古代伝説にも登場し、アリストテレスの『政治学』には、海賊は猟師などと同様に職業の一つとして数えられていた。

8世紀には北欧ノルマン人ヴァイキングの活動があった。中世においてはヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国といった通商国家の商船が、自国の商圏を防衛するために武装化して、競争相手の船舶を攻撃・略奪することがあった。

日本において、文献上「海賊」に関する初見は『日本書紀雄略紀5世紀後半)の文石小麻呂からである[2](『続日本紀天平宝字8年の記事には「海賊人」の記述がみられる)。

9世紀半ばの瀬戸内海では、中央に調庸・雑米を送る船舶が洋上で襲撃される被害が頻発し、海賊鎮圧令(追捕官符)が度々出されている[3]。中世日本の海賊の話としては、13世紀前半成立の『宇治拾遺物語』に、元海賊の老僧侶(海賊時代は「淡路の六郎追捕使」と称した)の話があり、瀬戸内海での無慈悲な行為が語られている(最終的には改心し出家した回顧話)。

国家公認の海賊行為の例とされたのが、9世紀新羅がある。893年9月に新羅海賊が45艘で対馬を襲撃するも、文屋善友らの善戦により、賊302人殺害、多数兵器を獲得し、捕虜となった賢春の自白により、新羅国の不作で飢饉が発生し、国家財政の補充のため、王命を受けて襲来したとして、その規模、100艘2500人と記す(『日本三代実録』『扶桑略記』)。『三国史記』には、889年に慢性的に窮乏する国家財政の補充のために税賦の取り立てをきつくしたために、広く反乱が起こったと記述されており、国内の反乱を恐れて国外に手を出したとして、賢春の自白は虚言ではないとみられる[4]。しかし、『扶桑略記』の「人々が飢えに苦しんでいるのに、新羅王は穀物絹などの徴収を命じたため、やむを得ず日本にやってきた」という部分の後代の研究者の誤読で、当時の朝廷でも対応を太宰府任せにしていて、新羅国相手の危機感や脅威はなかったと指摘している[5]

16世紀後半に始まるイギリススペインの抗争では、ヨーロッパやカリブ海では交戦相手国の船を略奪してもよい、という国王の私掠免許が出され、私掠船が横行した。また東アジア倭寇や中国海賊、ペルシア湾のアラブ海賊、北アフリカ沿岸のバルバリア海賊など、海あるところには海賊の姿があった。「降伏すれば命は保証、抵抗すれば皆殺し」の印である海賊旗ジョリー・ロジャー)は、18世紀になってから使われだしたものである。

専門の海賊職以外にも、半商半賊とでもいうような、商売にやってきてそれが不調だったら海賊になって街を襲うというような形態、あるいは普段は商人だが、他の海賊に対抗するために武力を持ち、たまにそれを使って海賊をするといったような場合もあった。後者の例は、海禁が引かれ私貿易が制限された後期の16世紀後半に横行し、に抵抗運動を続けた事で有名な鄭成功の出た鄭一族などが活躍した。アマロ・パーゴ海賊の黄金時代の最も有名な海賊の一人。

海賊はその出現場所・時代によりさまざまな呼称、形態がある。
倭寇詳細は「倭寇」を参照

日本のこと。14世紀16世紀の二度の波に分かれて中国大陸朝鮮半島の沿岸を襲い、それぞれ前期倭寇、後期倭寇という。前期は日本人が中心だったが、後期には明の海禁政策から逃れた明国人が多くなり、日本人の他にポルトガル人なども含まれていた。
海賊衆(水軍)詳細は「水軍」を参照

中世日本で活動した、交易を行う傍ら船舶や村への略奪、あるいは逆に金銭を取って船舶航行の警護を組織的に行った沿岸の国人土豪の事を海賊衆と呼んだ。実際には略奪というよりは帆別銭、警固料(通行税)の取り立てで生計を立てていた。この頃の海賊衆には瀬戸内海村上氏志摩半島九鬼氏などが知られる。しかし豊臣秀吉1588年8月29日天正16年7月8日)に刀狩令とともに海賊停止令を発令して以降は、これらの豪族が帆別銭の取立てや海賊行為を働くことは難しくなり大名の水軍へと転化し、消滅した。
北海・バルト海詳細は「ヴァイキング」および「en:Baltic Slavic piracy」を参照

バイキングはノルマン人の事で、8世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパの各地を侵略し、席巻した。一部はスコットランドや北イングランドに入植し、またフランスを襲った一派はノルマンディー公国を、ロシアルーシ)ではノヴゴロド公国キエフ大公国南イタリアではシチリア王国を立てた。その活動はスケールが大きく、グリーンランド、果ては北米にまでに達し植民地を作り、十字軍ノルウェー十字軍)にも参加した。

中世の終わり頃のバルト海沿岸部は、経済が発展して都市、交易所などが建設されていた[6]。そこではスラブ人、ゲルマン人等の海賊が略奪をおこなった[6]。そのため海賊行為の被害者であるハンブルク市とリューベック市の商人たちは1241年に「ハンザ同盟」と呼ばれる同盟を作成した[6]

1293年その同盟には北海、バルト海等に位置する24都市が参加した[6]


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