海賊の黄金時代
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財宝を巡って争う海賊(ハワード・パイル

海賊の黄金時代(かいぞくのおうごんじだい, 英語: Golden Age of Piracy)は、通常、近代初期における海賊行為の活発化を指す歴史学上の用語である。
概要

「海賊の黄金時代」は後世になってから使われるようになった言葉で、初出は1894年である。広義には1650年から1730年までをいい、3つの時代に分けられる。
バッカニア時代(1650年 - 1680年頃) - イギリス人フランス人の船乗りがジャマイカ島トルトゥーガ島を拠点に、カリブ海や東太平洋を周航しスペイン植民地を攻撃した時代。

海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代) - バミューダ諸島や南北アメリカ大陸から長距離航路に乗り出し、インド洋紅海ムスリム商船や東インド会社の船を襲った時代。

スペイン継承戦争以降の時代(1716年 - 1726年) - スペイン継承戦争が終結して職を失ったイギリス人、アメリカ人の水夫や私掠船員が海賊に転じ、カリブ海、アメリカ大陸東岸部、アフリカ西岸を襲撃した時代。

狭義では3番目の時代のみを指し、1番目と2番目はしばしば除外される。現代人の海賊のイメージの多くは、あまり正確でない場合もあるが、これら海賊の黄金時代に由来するものである。

この時代に海賊行為が発生した要因としては、各海域からヨーロッパへ輸送された高価な貨物の量が増加したこと、ヨーロッパ諸国の海軍が特定の海域で減少したこと、船乗りたちが海軍(特に英国海軍)で訓練を受けて経験を積んだこと、海外植民地の統治体制が非効率だったことなどが挙げられる。この時代、植民地の軍隊は海賊と絶えず交戦しており、いくつもの著名な戦闘や関連する事件に巻き込まれた。
歴史

海賊行為はイギリススペインオランダポルトガルフランスといった、当時のヨーロッパ列強による交易や植民地を巡る衝突の結果、その縮小版として主に生じた。海賊のほとんどはイギリス、オランダ、フランスに起源を持つ人物だった。
バッカニア時代詳細は「バッカニア」を参照"カリブ海のバッカニア"(ハワード・パイル

数名の歴史家は海賊の黄金時代を1650年頃に始まるとしている。その頃、宗教戦争が終結したことでヨーロッパ諸国は各々の植民地開発を再開し、それによって海上交易が盛んになった。そして新大陸の植民地から大量の富が生み出され(言い換えれば収奪され)、その多くが船で運搬された。

バッカニア(buccaneer)はカリブ海を中心にスペインの植民地および商船に攻撃を加えた無法者集団で、「バッカニア」という言葉は、狩った獲物の干し肉を作るのに彼らが用いた道具「ブカン」に由来するという[1]。本人達は「沿岸の義兄弟」を称していた。早くも1625年に、フランス人のバッカニア達が当時ほぼ無人だったイスパニョーラ島北部(現在のハイチ)に根城を築いたが、当初彼らは盗賊というより猟師として生活していた[2]。彼らが徐々に職業海賊に転身していったのは、バッカニアと彼らの獲物である野生化した牛や豚を根絶しようと、スペイン人がイスパニョーラ島に攻撃を仕掛けたからだった。バッカニア達はイスパニョーラ本島からもっと守りやすい沖合のトルトゥーガ島へ移住したが、そこは資源が不足していた。生きるため、そして恨みを晴らすためにバッカニアはスペイン人に対し略奪に乗り出した。アレクサンドル・エスケメラン(英語版)(バッカニアであると同時に歴史家で、彼の記録はこの時代の海賊の貴重な史料となっている)によると、スペインへ帰る途上のガレオン船を初めて攻撃したのはピエール・ル・グランだという。トルトゥーガ島には一種の海賊共和国が築かれ、独自のルールで海賊たちは島を統治した。トルトゥーガ島の評判が広がると、フランス人のみならずカリブ海から様々な国籍、人種のならず者どもが集まるようになった[3]。スペイン軍はたびたび大艦隊を派遣してバッカニアを追い散らしたが、艦隊が帰ると彼らはすぐに島に戻ってしまった。

1655年にイギリスがジャマイカ島を占領すると、トルトゥーガ島を拠点とする海賊行為はさらに増加した。初期のジャマイカ総督達はトルトゥーガ島のバッカニアやイギリス人に進んで私掠免許を発行した。また、ジャマイカ島の当時の首都ポートロイヤルは戦利品を売り払うのに非常に都合が良かった。ポートロイヤルには酒場や娼館などが立ちならび、海賊たちは稼いだ金の大半をそこで浪費した[4]。1660年代には、新たなトルトゥーガ島総督ベルトラン・ドジェロンが同様の委任状をフランス人植民者やポートロイヤルのイギリス人の殺人犯に与えた。これらの条件によってカリブ海における海賊行為はピークを迎えた。この時代に活躍した海賊には、1666年にマラカイボを襲撃したフランソワ・ロロネー[5]、一介のバッカニアからジャマイカ副総督に上り詰めたヘンリー・モーガンなどがいる。
海賊周航戦利品を見せつけるヘンリー・エイヴリー

1690年代が始まると同時に、バッカニア時代の終わりに苦杯を舐めたイギリス人やアメリカ人の海賊の多くが財宝を求めてカリブ海の外に目を向け始めた。バッカニアの没落には多くの理由があった。イギリスでスチュアート朝が崩壊したことで昔ながらの英仏の対立が再燃し、英領ジャマイカと仏領トルトゥーガの共同関係が崩れたこと、1692年の地震でポートロイヤルが壊滅し、略奪品を捌く市場が失われたこと[6]、カリブ海植民地の総督たちがそれまでの「(トルデシリャス条約で引かれた)本経線を越えて平和なし(No peace beyond the Line)」という政策を放棄しはじめたこと(この政策がとられているうちは、ヨーロッパで平和条約が締結されていても新大陸では戦争が続いていると考えられていた。そのため私掠免許状が発行されていたのだが、これ以降は免許状の発行はヨーロッパでの戦争中に限られるようになり、締め付けは徐々に強まっていった)などがあげられる。これらの理由に加えて、単純にスペイン領の主要植民地が消耗しきってしまっていたことも大きかった。1667年から1678年にかけて、マラカイボだけで3回、リオデラアチャは5回、トル(現コロンビア)にいたっては8回も略奪を受けていた[7][8]

同時に、イギリス本国は数度にわたり航海法を公布したため、イギリスの植民地(バーミューダニューヨークロードアイランドなど)は金欠状態に陥っていた。財貨に飢えた商人や総督は、海賊を見過ごすばかりでなく、彼らの航海に保険を与えたりした。とある植民地の役人は「領内に金をもたらす人々の縄に首を掛けるのは残酷な所業である」として海賊を保護したほどである[9]。これらの海賊のなかには1690年代以降も北米のニューイングランドや中部植民地(ニューヨークニュージャージーペンシルヴェニアデラウェアの4州)から出発して、遠く離れたスペインの太平洋の植民地を標的にする者もいたが、彼らの多くはインド洋に獲物を求めた。この時代、インドの生産力はヨーロッパのそれを大きく上回っており、とくにキャラコなどは高価で取引されたため、それらが海賊の理想の略奪品になった[10]。加えてインド洋には目立った海軍勢力が存在せず、ムガル帝国の船舶や各国の東インド会社の商船は襲撃に弱かった。また、アフリカ東岸のマダガスカル島は前の時代におけるトルトゥーガ島に相当する役割を果たした。これらを背景に、トマス・テューヘンリー・エイヴリー、ロバート・カリフォード(英語版)、そしてウィリアム・キッドなどの有名な海賊が活躍した。しかし、1697年にフランス軍・バッカニア連合軍がカルタヘナを占領したの最後に、バッカニア時代から続いた海賊の活動も徐々に下火になっていった[11]
スペイン継承戦争以降の時代ロバート・メイナードと戦う黒髭

スペイン継承戦争(新世界ではアン女王戦争)は1713年から1714年にかけて平和条約が締結されて終結した。これにともない、イギリスの非正規戦闘員だった私掠船員は軍務を解かれた。その結果、本国・植民地間の交易がふたたび活発になりはじめた大西洋上に、数千の仕事を失った訓練済みの水兵が放り出された。


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