海行かば
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『海行かば』(うみゆかば)は、日本の官製軍歌国民歌謡の一つ[1]歌曲[2]合唱曲[2][3][4]。特に大東亜戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)[5]

詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。

この詞には、1880年明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。お使いのブラウザーでは、音声再生がサポートされていません。音声ファイルをダウンロードをお試しください。

[6]
信時潔の作品

当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔日本放送協会の嘱託を受けて1937年昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である。

放送は1937年(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある[7]。本曲への国民一般の印象を決定したのは、太平洋戦争時にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際、必ず冒頭曲として流されたことによる(ただし、真珠湾攻撃成功を伝える際は勝戦でも流された)。ちなみに、勝戦を発表する場合は「敵は幾万」、陸軍分列行進曲抜刀隊」、行進曲『軍艦』などが用いられた。

なお、桜美林学園は創立以来、1958年(昭和33年)まで「海ゆかば」の旋律を校歌に採用していた。
歌詞ウィキソースに海行かばの原文があります。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

海(うみ)行(ゆ)かば 水(み)漬(づ)く屍(かばね)
山(やま)行(ゆ)かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね)
大(おほ)君(きみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ
かへりみはせじ
(長閑(のど)には死(し)なじ)

歌詞は2種類ある。「かへりみはせじ」は、前述のとおり「賀陸奥国出金詔書歌」による。一方、「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。大伴家持詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したと考える説が有力ともいわれる[誰によって?]。万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している。
原歌
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)

葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女(め)の童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだて)て 丈夫の 清きその名を 古(いにしえ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み
評価など

ダーク・ダックスの喜早哲は、(楽譜通りに演奏することを条件として)自著[要文献特定詳細情報]の中で信時の『海ゆかば』の音楽性を賞賛した。

谷口雅春は海ゆかばに反対していた。その結果、生長の家の本部講師と特別高等警察の間でトラブルが発生することもあった[8]

現在出版されている信時潔の歌曲集にこの曲はなく、上記CD『海ゆかばのすべて』発売以前は、ピアノと共に演奏することは容易ではなかった。このような音楽出版社、およびNHKの姿勢について、臭い物にはフタ式の不誠実な態度であると、藍川由美はみずからの著作[要文献特定詳細情報]やCDのライナーノート[要文献特定詳細情報]などで繰り返し批判している(2005年平成17年)に再刊された春秋社の曲集には、付録として『海ゆかば』が収載されている)。

林光は、軍国主義を批判する立場から『旗はうたう』(1987年(昭和62年))を作詞・作曲した。この中で林は、信時の『海ゆかば』を痛烈にもじっている。

小津安二郎の映画『父ありき』(1942年(昭和17年))のラストシーンにも信時作品が用いられた。しかし当該部分は戦後、GHQ検閲により音声が削除された。ソビエト連邦軍満州から持ち去り保管していたフィルムにより、オリジナルの姿が知られる。

近代に作られた神楽である靖國の舞にも、この歌詞が使われている。

坂本九の楽曲「結婚通知」の後半にこの歌が引用されている。

50名による論集に『「海ゆかば」の昭和』(新保祐司編、イプシロン出版企画、2006年)がある。

軍歌か鎮魂歌か

大本営発表や出征兵士を送る際に使われた一方で、戦没者の遺骨を迎える際にも使われた経緯から、「軍歌」と認識する者と「鎮魂歌」と認識する者に分かれている。

2016年(平成28年)から千葉県八千代市で年に1回開催されている「日本の心を歌う集い」[9]では、第3回となる2018年(平成30年)3月3日に本曲が歌われる予定となり、それまで同イベントを後援してきた八千代市教育委員会は、一部の市民から「軍歌を歌うイベントの後援は好ましくない」との指摘を受け、第3回の後援は見送ることを決めた。


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