海老名弾正
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えびな だんじょう
海老名 弾正

生誕海老名喜三郎
1856年9月18日
筑後国柳川藩
洗礼1876年6月
死没1937年5月22日
東京市杉並区高円寺
墓地多磨霊園
国籍 日本
別名ヤコブ(洗礼名)
出身校伝習館(柳川藩校)
熊本洋学校
同志社英学校
職業牧師伝道者神学者思想家
配偶者海老名みや
親父:海老名平馬助、母:海老名駒
受賞勲五等瑞宝章正六位
栄誉本郷教会名誉牧師
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海老名 弾正(えびな だんじょう、改名前は喜三郎、1856年9月18日安政3年8月20日[1]) - 1937年昭和12年)5月22日[1])は、日本思想家教育者キリスト教伝道者牧師説教家小崎弘道宮川経輝と共に「組合教会の三元老」と呼ばれた。熊本バンドのメンバーで同志社総長となった最後の人物である。
生涯1902年頃の本郷教会幹部(前列左から2人目が海老名弾正)1913年頃の雑誌『新人』の同人(前列左から湯浅治郎海老名みや、松井友子、野口せい子、小山東助、右端不明、後列左から和田信次、相原一郎介、吉野作造、海老名弾正、加藤直士鈴木文治同志社総長時代の海老名弾正(1927年)
初期

筑後国柳川藩の藩士で六組給人(石高100石、小野勘解由組)の海老名平馬助の長男として生まれる。祖父は海老名弾右衛門。藩校伝習館で学んだ後、明治5年(1872年熊本洋学校に入学する[1]
熊本バンド

明治9年(1876年)花岡山の誓約に加わり、L・L・ジェーンズから洗礼を受ける。その集団が後に熊本バンドと呼ばれるようになる。

その年の秋に同志社英学校余科(神学科)に移り、新島襄の薫陶を受ける。翌明治10年(1877年)に新島襄の勧めで上州安中へ夏期伝道に赴き、聖書講義を行った。評判が良く50-60人の青年が集まった。さらに、明治11年(1878年)にも安中伝道を行った。新島襄を迎えて30名の人が洗礼を受け、安中教会が誕生した。
牧師時代

明治12年(1879年)同志社を卒業すると、安中教会の正式な牧師となり、新島から按手礼を受ける。

明治15年(1882年横井小楠の長女みや子と結婚する。明治16年(1883年)5月に上京して、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。

明治17年(1884年)に前橋へ転居して、前橋教会を創立する。明治19年(1886年)に東京伝道を志し、本郷湯島で伝道を開始して本郷教会を創立する。本郷教会は義兄の横井時雄に委ね、熊本に戻る。そこで、熊本英学校熊本女学校を創立する。

明治23年(1890年)に海老名は日本基督教伝道会社の社長に就任し、アメリカから財政、神学的独立のために尽力した。明治26年(1893年)に神戸教会の牧師に就任するが、明治30年(1897年)に同教会を辞任し、東京に移る。

「キリスト同志会」をつくり本郷教会牧師の再建を図る。明治33年(1900年)に雑誌『新人』を発行する。吉野作造内ヶ崎作三郎深田康算鈴木文治などが加わり、日本の思想界、キリスト教界の注目を集めた。明治42年(1909年)には姉妹誌『新女界』を創刊し、安井てつ海老名みや子などが健筆をふるった。

明治41年(1908年)、第3回万国会衆教会大会(エディンバラ)に日本組合教会を代表して参加。その旅の途中で米国カリフォルニア州で余生を送っていたかつての恩師ジェーンズとの再会を果たした[2]


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