海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである[1]。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。
またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁
」)もまた、海禁と位置付けられることもある。元代末に海賊船が往来し闘争殺傷が繰り返されたことから、泉州に向かう貿易品は全て剽窃に関係するとまで云われ、南洋の海上貿易は危険を極めていた[2]。こうしたことから明代に入ると太祖洪武帝が国令として海禁策を発布し、事実上の貿易禁止となる海上利用制限政策をとった[3]。
海賊禁圧や密貿易防止を目的として明代に幾度も発布された海禁は、海外貿易、沿岸漁業及び沿岸貿易(国内海運)を規制する政策でもあり、中国国内に止まらず南洋を含めた周辺諸国の社会・経済に影響を与えた。中国人にも出発地の役人の発行した証明書の携行を義務づけ、それに違反した者は辺境地方に追放するという厳格なものだったため、一旦海外に出ると中国に戻らず周辺地域に移住しそこから中国へ密貿易する武装集団の倭寇が生まれた[4]。
明代において海洋政策とされたが、永楽帝の時代になると鄭和南洋派遣(1405年)等の積極的な対外拡大政策を執り、明との交易利益を諸国に説いたことから諸国が訪明するようになると、禁を犯して出海する中国人海商、周辺地域で明の移民船と称された移民活動も増加し、それに伴い海禁の発令頻度も増した[3]。
大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出したポルトガル等の外圧や沿岸部の有力郷紳と結託した倭寇から、明朝内部からも海禁緩和を嘆願する胡宗憲等も現れ、明代後期には海禁の存廃論争が行われた。
清代にも初期に海外貿易のみならず沿岸海運、沿岸漁業も対象とした厳格な海禁政策が採られた。これは鄭氏政権孤立化を目的としたもので、沿岸部への民衆の立ち入りを禁じた遷界令と合わせて厳格な海禁を行うものであったが[5]、密貿易は絶えることがなく、効果は限定的なものに止まった。その一方で海禁政策は国内における銀・銅の不足を招き、経済に混乱を引き起こした。鄭氏政権降服後に海禁は停止されるが、米の海上積み出しを禁じる米禁
や南洋海禁(東南アジア渡航の禁止)など、限定的な海禁は行われた。沿海部の海防や秩序構築を目指した海禁は、明・清両王朝の建国期には一定の役割を果たした。一方で東南アジアの陶磁器産業のように海禁により発展の契機を攫んだ事例も存在し、琉球王朝のように朝貢貿易を許された国家にとっては独占的な貿易を通じて恩恵をもたらすものとなった。 元末の反乱集団の中から台頭した朱元璋(洪武帝)は元朝を北へ逐い、1368年に明国を建国する。しかし元末明初の中国沿岸部では前期倭寇が活発に活動しており、『明史』『明実録
明代の海禁 遠洋航海用大型ジャンク
海禁の確立
海禁は海賊防止と密貿易の取り締まりの二つの機能を兼ね備えた政策であるが、洪武帝が海禁令を発した直接の目的は倭寇の禁圧にあり、当初は密貿易の取り締まり、つまり貿易統制を行う政策ではなかった。貿易統制は市舶司制度と違禁下海律[注 1]の管轄下にあり、その統制下で民間貿易は認められていた[9]。明朝は建国の前年に太倉に黄渡市舶司を、1370年にそれを発展解消して寧波・泉州・広州に三市舶司を設置し、貿易を奨励しながら関税徴収を行っていた[10]。しかし倭寇跳梁の収まらぬ中で海禁違反者と違禁下海律違反者の判別は困難であり、貨幣経済の浸食から国内経済を防衛する必要性や[注 2]交易の利を餌に周辺諸国を朝貢貿易に参加させる狙いもあり、明朝は1374年に三市舶司を廃止して民間貿易を全面的に禁止した。これによって海禁は違禁下海律と一体化して貿易統制の機能も兼ね備え[注 3]、密貿易の取り締まりを通じて朝貢貿易を補完する政策となって「海禁―朝貢体制」あるいは「海禁=朝貢システム」と呼ばれている[12]。
洪武帝は各地に水寨を設置して兵船を巡回させ、あるいは島嶼部住民の本土への強制移住を行い、時には漁民の出漁まで禁じ、後に「国初、寸板も下海を許さず」と評される厳格な海禁を行った[注 4][14]。