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この項目では、長野県の城について説明しています。新潟県の城(まつだいじょう)については「松代城 (越後国)」をご覧ください。
logo松代城
(長野県)
松代城址
別名海津城、貝津城、長野城
城郭構造輪郭式平城
天守構造なし
築城主武田信玄
築城年1560年(永禄3年)
主な改修者田丸直昌、森忠政
主な城主武田氏、上杉氏、田丸氏、森氏、真田氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財国の史跡
再建造物太鼓門、北不明門、土塀、堀、石垣、土塁
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度33分57.99秒 東経138度11分45.62秒 / 北緯36.5661083度 東経138.1960056度 / 36.5661083; 138.1960056
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}松代城
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松代城(まつしろじょう)は、信濃国埴科郡海津[1](現・長野県長野市松代町松代)にあった日本の城。元々は「海津城」(かいづじょう)とよく呼ばれていたが、「貝津城」とも言われた。また「茅津城」(かやつじょう)とも言われ、茅の生い茂った地であったと伝える説もある。城の形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。なお、越後国頚城郡にある松代城の読みは、「まつだい」である。 海津城の正確な築城時期は不明である。戦国期、甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、着実に領土を併合して北へ目指していく途中、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)と北信・川中島地域で軍事衝突した。この武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。この時、千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備された。『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏
歴史・沿革
戦国時代・安土桃山時代
文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され(『信濃史料』12巻 - 250号)、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。
海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置する。永禄4年(1561年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたという(第四次川中島の戦い)。
また海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられている。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣の森長可の居城となる。森長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが、彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し、海津城も無人のまま捨て置かれた。それ以後の海津城は、空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、海津城の城主には田丸直昌が任じられた。
海津城は甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。 1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止された。この時、海津城は「待城」(まつしろ)へと城の名称が変更された[2]。1603年(慶長8年) - 森忠政は美作一国(津山藩)18万6500石へと加増転封され、松平忠輝が14万石(12万石?)で入封した。忠輝は加増されて越後高田藩主75万石となるが旧領も引き続き領有したため、家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力した。1616年(元和2年)松平忠輝改易。代わって松平忠昌が12万石で入り、この忠昌領主時代に待城から「松城」へと改名された。1619年(元和5年)松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。酒井忠勝10万石が入封。1622年(元和8年)酒井忠勝、出羽国庄内藩13万8千石に転封。真田信之が13万石で入城。以後、松城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。松代城は松代藩の政治の中心となったが、商人たちは善光寺門前から動こうとしなかったため松代城下は商業の中心地にはならなかった。 1717年(享保2年)火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失したが、幕府より1万両借財し1718年(享保3年)に再建した。 1742年(寛保2年) - 戌の満水により松代城は被害を受け、城主が松代南にある開善寺へ船で避難した。 1752年(宝暦3年) - 藩の執政原八郎五郎により城の北側を流れていた千曲川を瀬直しし、旧流路は百間堀となった。 1770年(明和7年)花の丸に御殿を移した。 1804年(文化元年)御蔵屋敷北側に新堀が造られた。 1828年(文政11年)城地北側に佐久間一学(象山の父)により土手を築く。幸貫により「不崩(かけ)ずの土手」と名付けられた。 1847年(弘化4年)善光寺地震が発生し、本丸・二の丸・三の丸の囲い塀、櫓、番所などが大破し倒壊した。
江戸時代