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日本の政治家有村 俊斎/海江田 信義
海江田信義(1899年)
生年月日 (1832-03-13) 1832年3月13日(天保3年2月11日)
出生地 日本・薩摩国
没年月日 (1906-10-27) 1906年10月27日(74歳没)
所属政党無所属
称号正二位
勲一等旭日大綬章
子爵
配偶者日下部まつ
貴族院議員
選挙区子爵議員
在任期間1890年7月10日 - 1891年9月21日[1]
元老院議官
在任期間1881年4月19日 - 1890年10月20日
官選第3代 奈良県知事
在任期間1870年8月19日 - 1871年11月22日
初代 甲府鎮撫使
在任期間1868年3月 - 同4月
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海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日(天保3年2月11日) - 1906年(明治39年)10月27日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家、華族。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の次男として生まれた(幼名は太郎熊)。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。嘉永5年(1852年)、樺山三円(のち樺山資之)とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。 尊王の志高く江戸では小石川の水戸藩邸に出入りし、水戸の両田として名高い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事し尊王論を学んだ。特に藤田には目をかけられ和漢の書に親しむ傍ら、西郷を藤田に引き合わせている。大老井伊直弼による安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われ、安政5年(1858年)、西郷と共に僧侶・月照を保護して帰国、その後、大久保利通ら在藩の「精忠組」各士、脱藩「突出」して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義を暗殺することを計画するも、藩に知られるところとなり、藩主島津茂久(後見役島津久光)から、彼らを「精忠の士」と認めたうえで軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより、「突出」は中止となり、以降、藩政に従うこととなる。
生涯
生い立ち
西郷・大久保との出会い
志士として