海岸寺
瀬戸内海富士(高見島)
所在地本坊:香川県仲多度郡多度津町西白方997
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度15分22.9秒 東経133度43分41.4秒 / 北緯34.256361度 東経133.728167度 / 34.256361; 133.728167 (海岸寺)
海岸寺(かいがんじ)は香川県仲多度郡多度津町西白方に所在する真言宗醍醐派の寺院。詳しくは経納山 迦毘羅衛院(かびらえいん) 海岸寺と称する。寺院本尊は聖観世音菩薩。大師堂は奥之院と呼ばれ弘法大師誕生仏が本尊で、それぞれに納経所があり、それぞれの本尊の納経をしてもらえる。
札所:四国別格二十霊場十八番札所、四国三十六不動霊場第三十一番札所、讃岐十二支霊場卯歳守護文殊菩薩札所、全国百八ヵ寺・愛と心の寺めぐり〈訶〉。
本尊真言:おん あろりきゃ そわか
御詠歌
遠近(おちこち)と ながめば沖の 走船 ふでや硯の なみぞうつなる(本坊)
わだつみの岸のお寺の産盥(うぶだらい)すすいでかける湯手掛の松(奥之院)
せとのきし まなこやひらく かいがんじ よろこびみちぬ 身も心にも(別格)
かのきしに こえもとどけよ マカロシャダ 除障明王 カンマンボロン(四国不動)
目次
1 概要
2 歴史
3 境内
4 前後の札所
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要 全景
瀬戸内海に面した屏風ヶ浦海岸に位置する。寺院は本坊と奥之院からなり、両所の間にはさぬき浜街道とJR予讃線が通過し分断されている。なお、ユースホステルを併設している。
歴史 産井
寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。
平安時代初期の大同2年(807年)空海が本堂を建立して正観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされる。
戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し(この地の領主香川氏は長宗我部より子を迎えて跡継ぎとしており、天正11年には長曾我部から香川氏へ東讃の領土も任せる旨の書状があるので長宗我部がこの年にこの寺を焼く事情もなく、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この説は正しくないと思われる[独自研究?])、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。
文化年間(1804年から1818年)には、白方屏風浦が空海の誕生地とし当寺が誕生所と名乗ることを不服とした善通寺との間で誕生所争いが勃発し、ついには江戸幕府の寺社奉行をも巻き込んで、文化13年(1816年)に嵯峨御所の「善通寺は誕生所で当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」との裁決を受ける事態が生じた。
明治16年(1884年)琴平松尾寺多聞院より当寺と合寺の依頼があり、その後、多門院は廃し当寺と合寺した。
明治38年(1905年)本坊の裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ約千名が翌年まで収容された。 本坊:香川県仲多度郡多度津町西白方997
境内
山門:1965年5月落慶。仁王像の代わりに昭和三十年代に活躍した地元出身力士の琴ヶ浜(観音寺市出身、向かって右)と大豪(丸亀市)の像が立っている。
本堂:1856年再建。堂内にて参拝できる。壁の上部には雲中二十五菩薩。四国別格二十霊場の札所。
不動明王堂護摩場:讃岐の金刀比羅宮で祀られていた不動明王立像、神変大菩薩像が明治初期の神仏分離令の法難から逃れ当寺に祀られる。拝観できる。
椿弁財天(祠):当寺鎮守
迦毘羅津(きゃびらつ)神社跡(石の祠):蕪津神社ともいい、延喜式内社で一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮があったという。
十三仏石像:有縁凹凸十三仏
客殿:1801年9月再建。
本坊:1856年再建。
宿坊