海士町_(輪島市)
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海士町
町丁
海士町天地の航空写真
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
舳倉島の航空写真
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
日本
都道府県 石川県
市町村 輪島市
人口(2022年(令和4年)12月1日現在)[1]
 ? 合計400人
郵便番号928-0072[2]

海士町(あままち)は、石川県輪島市大字である。能登半島沖合48kmにある離島である舳倉島と、本土側の地区である天地から構成される。海士町は筑前鐘崎から渡来した海士により開かれた地域であり、元来住民は天地と舳倉島のあいだで季節移住を行い、潜水漁を中心とする漁業を営んだ。
地理
天地

天地(てんち)は、海士町の本土側の地区である。輪島市の北西部、輪島港と丘陵に挟まれた場所に位置し[3]、家屋が密集して建つ[4]。「島から見た本土」を意味する言葉であるジカタ[3]、あるいは市の行政区分番号から20区とも呼称される[5]
舳倉島「舳倉島」も参照

舳倉島(へぐらじま)は、能登半島の沖合48kmにある[5]、面積0.55km2の離島である[6]。地質は紫蘇輝石安山岩からなる溶岩質であり、地形は平坦である[7]。年間を通して北からの風が強く、港湾や集落は強風や波浪をさけて、南東岸に形成されている[6][7]。気候の影響から樹木は原生しないが、防風を目的に松の保育が進められている[6]
歴史
海士の渡来と海士町の開町

郷土史家である森田平次1823年 - 1908年)は『能登志徴』において『舳倉島旧記』を引用し、海士町民の祖である筑前国上座郡金ヶ崎(鐘崎)の海士は、永禄12年(1569年)、知人を訪ねて能登国羽咋郡赤住村、鳳至郡吉浦村・皆月村に渡ってきたと記している。同書によれば、漁民らは当初、春から能登で漁を営み、秋になると帰っていたが、文禄3年(1595年)より鳳至郡鵜入浦に借家するようになる。元和3年(1617年)には、海士の又兵衛が当時の加賀藩主である前田利常に拝謁し、光浦に住まって漁業を営む許可を得る。利常は寛永20年(1643年)に舳倉島・七ツ島運上の御印書を与え、さらに慶安2年(1649年10月16日には輪島鳳至町領内に1000歩の土地を与えた[8][9]。これが現在の天地である[10]。『舳倉島旧記』は現在散逸し、『能登志徴』に要約が遺されるのみとなっているが、永禄年間に鐘崎の漁民が能登に渡来したという同書の記述が信頼に足るものかには疑問が呈されている[11]。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}赤住吉浦皆月鵜入名舟光浦黒島谷内大野宮腰金沢小浦小木布浦曽々木七尾飯田宇出津舳倉島天地七ツ島 海士町(天地・舳倉島)および記事中に登場する地名

また、『能登里人談』にも同様の話が記されている。同書は、永禄年間に鐘崎の海人又兵衛が男女12人漁船3艘とともに羽咋郡に漂着したのが海士町民の祖であると伝える。彼らは海岸に仮小屋を作り、ここを根拠として沿岸の島嶼でを漁獲した。彼らは鳳至郡光浦に移住し、天正年間、前田利家に熨斗鮑(鮑の肉を薄くはぎ、引きのばして乾かしたもの[12])を献じて謁見を請い、舳倉島および七ツ島で鮑を獲る許可を得た。利家は、毎年米塩と引き換えに乾鮑および熨斗鮑を納めさせ、運上および米塩代とする特別の保護法を与えた。寛永年間、男女150人がひとつの仮屋に雑居する状況にあった漁民らが転地を申し出、それを承諾した利常が彼らに1000歩を与えたのが現在の海士町であるという[10]

同時代の文書記録において海士町民の出身地は「西国」と記されるのみであり、彼らの故地が鐘崎であるという確たる証拠はない。しかし、このことは言語学的証拠からある程度確実視されている。鐘崎の海士は漁場開拓のため広範な地域を渡り歩いたことが知られており、その行動域は壱岐対馬島根朝鮮半島などにも及んでいる。こうした鐘崎の海士の移動は「アマアルキ」と呼ばれた[5]

輪島の海士に関するもっとも古い文書記録として、慶安2年の海士又兵衛による屋敷拝領願が知られている。これによれば、彼らは西国から能登に2月ごろに渡航し、年の暮れに帰る生活を送っていたが、仮屋を建て永住するようになったという。彼らは寛永20年に筑前守に屋敷拝借を申し願い、正保3年(1646年)、光浦村にある250歩ほどの土地に14軒の家を建てて移住した。この文書において又兵衛は、150?60人いる海士にとってこの土地はあまりにも手狭であり、御菓子熨斗・長熨斗の上納を命じられている現状、今のむさくるしい土地を離れ、より広い土地を拝領してきれいな所でこうしたものを作り献上したいと訴えている[11]

また、『上梶家文書』によれば、海士町民は寛永11年(1634年)からそれまで名舟村が負担していた島役の半分を負担している。さらに、『寛永十一年組中万事入用之帳』にはこの年から海士が負担することになった島役の半分と、海士の居住する鵜入に催促に行ったときの手間賃と思われる金額が書き上げられている。こうした記録から、鐘崎の海士が能登に渡来したのは寛永年間ごろのことであると考えられている[11]
近世の海士町

鐘崎の海士が能登に渡来する以前から、舳倉島および七ツ島では名舟村の漁民が飛魚・鮑・ワカメエゴ草黒海苔を採取していた。特に舳倉島の黒海苔は有名で、加賀藩は幕府や朝廷への献上品・進物品に利用するため、寛永8年(1631年)ごろから毎年名舟村に上納を命じている[11]。海士町の発展と、それにともなう漁獲対象の広範化は、元来この場所で漁業をしていた名舟村民との対立を招き、両地域のあいだでは漁場を巡る相論がたびたび起こった[13]。しかし、半農半漁の生活を営んでいた名舟村民と比較し、漁業だけで生計を立てる海士町民は漁に対して技術や意気込みが高く、名舟村民は徐々に舳倉島から遠ざかるようになっていった。天明の飢饉の際、食料に窮した名舟村民が舳倉島へワカメ狩りに出かけたところ海士に暴行され、ワカメを奪われるという事件が起きたが、このことは当時すでに舳倉島に名舟村民がほとんど渡来しなくなっており、海士から不法侵入とみなされたことを示している。名舟村は寛政4年(1792年)に七ツ島の胡?猟を独占することに成功するが、寛政8年(1796年)ごろよりワカメ漁を行う海士町民との紛争が起こる。文化6年(1809年)には両者で漁期を分けることが決められるもこれは無視され、紛争は幕末まで続いた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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