海城中学校・高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分16.56秒 東経139度42分08.81秒 / 北緯35.7046000度 東経139.7024472度 / 35.7046000; 139.7024472
海城中学校・高等学校(かいじょうちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: Kaijo Junior & Senior High School)は、東京都新宿区大久保にある、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 1891年(明治24年)に、古賀喜三郎により、「国家・社会に有為な人材を育成する」という建学の精神の下、海軍兵学校入学を目指す予備校として創立された。現在は、その建学の精神の下、「リベラルでフェアな精神」「思いやりの心」「民主主義を守る意思」「明確に意思を伝える能力」を身につけた高い知性と豊かな情操を持つ理想的な人物を「新しい紳士」と名付け、その育成に取り組んでいる。 かつては、高等学校での生徒募集を行っていたが、2011年に高校募集を停止しており、現在は完全中高一貫校となっている[1]。 1891年(明治24年)、佐賀藩出身の古賀喜三郎(海軍少佐・教育者)により、海軍兵学校入学を目指す予備校「海軍予備校」として創立された。海軍兵学校は、「一に海兵(海軍兵学校)、二に陸士(陸軍士官学校)、三・四がなくて、五に東大(東京帝国大学)」と言われ[要出典]、その教育を行うため、商議員には渋沢栄一や高田早苗ら、また議定員には西郷従道や伊東祐亨ら朝野の名士を集め、講師にも海軍兵学校の有力な教官を揃え、万全の体制を敷いた。全盛期には、海軍兵学校の全入学者の半数近くを占めるほどに発展し、「海軍兵学校に進むには海軍予備校(海城)を経なければならない」とまで言われた。また、1904年(明治37年)の日露戦争には、多くの卒業生たちが海軍士官として、旅順港封鎖に、日本海海戦にと活躍した。しかし、中学校令により、1899年(明治32年)に海軍予備校に併設された日比谷中学校(1899年 - 1906年)および1906年(明治39年)以降は、海城中学校(1906年 - 1948年)が次第に主流となり、海軍予備校の系譜である海城学校(1900年 - 1931年)が従となってくると、高等学校等へ進学するための普通の中学校に性格を変えていった。1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後、国家主権を失った占領統治下でのGHQによる学制改革政策により、1947年(昭和22年)に新制海城中学校、1948年(昭和23年)に新制海城高等学校として発足し、現在に至る。
概要
教育方針
建学の精神 - 国家・社会に有為な人材の育成
教育理念 - リベラルでフェアな精神を持った「新しい紳士」育成
校風 - 「質実剛健・リベラルでスマート」を校風として標榜している
沿革
略歴古賀喜三郎
年表
1885年(明治18年) - 漢学者の新楽金橘が余力学舎を芝区三田(現在の港区三田)に創立。
1886年(明治19年) - 余力学舎を東京英華学校と改称。
1888年(明治21年) - 麻布区桜田町、麻布区仲ノ町(現在の港区西麻布・六本木)に移転。東京英華学校を海軍兵医学校予備校と改称。
1890年(明治23年) - 麹町区元園町(現在の千代田区麹町)に移転。
1891年(明治24年) - 海軍兵医学校予備校を一旦廃校とし、古賀喜三郎が私財を投じて海軍予備校を創立。
1896年(明治29年) - 麹町区下弐番町(現在の千代田区二番町)に分教場を設置。
1897年(明治30年) - 麹町区八重洲町(現在の千代田区丸の内)に移転。
1899年(明治32年) - 麹町区霞関町(現在の千代田区霞が関)に移転。海軍予備校に併設して日比谷中学校を設置。
1900年(明治33年) - 海軍省の要請により、海軍予備校を海城学校と改称。
1902年(明治35年) - 海城学校・旧日比谷中学校校友会を合併し学友会が発足。
1906年(明治39年) - 日比谷中学校閉鎖、海城中学校発足。財団法人海城学校認可。
1914年(大正3年) - 古賀喜三郎、死去。学校葬を挙行。
1921年(大正10年) - 海軍予備校・日比谷中学校・海城学校・海城中学校の卒業生を糾合して、同窓会組織である海原会が発足。
1927年(昭和2年) - 豊多摩郡大久保町字百人町(現在の新宿区大久保)に移転。
1931年(昭和6年) - 財団法人海城学校を財団法人海城中学校と改称。海城学校を廃止。
1943年(昭和18年) - 保護者会が発足。
1944年(昭和19年) - 太平洋戦争激化により、生徒が勤労動員に出動。
1947年(昭和22年) - 学制改革により、新制海城中学校発足。
1948年(昭和23年)
学制改革により、新制海城高等学校発足。
保護者会を解散し、海城中学・高等学校PTAが発足。
1951年(昭和26年) - 財団法人海城中学校を学校法人海城学園に組織変更。
2007年(平成19年) - 海城中学・高等学校後援会が発足。
2011年(平成23年) - 高等学校生徒募集停止、完全中高一貫校化[2]。
2021年(令和3年) - 創立130周年記念事業。新理科館 (Science Center) 竣工。
キャンパスの変遷
1891年(明治24年)- 1897年(明治30年):麹町区元園町二丁目四番地(現在の千代田区麹町3-8-3、麹町学園女子中学校・高等学校)
本校発祥の地。
1897年(明治30年)- 1899年(明治32年):麹町区八重洲町二丁目一番地(現在の千代田区丸の内2-1、明治生命館)
宮内省所管の旧司法省の建物を下賜され、移転。この地を確保できたのは、創立者である古賀喜三郎が、有栖川宮威仁親王ら皇族との繋がりがあったからである。そして、後に宮内大臣の土方久元を本校議定員に迎え入れることになる。
1899年(明治32年)- 1927年(昭和2年):麹町区霞関町二丁目一番地(現在の千代田区霞が関1-2-2、中央合同庁舎第5号館)
官庁街のこの官有地を30年間借用する許可がおり、移転。隣は海軍省、目の前は日比谷公園という一等地だった。海軍省裏のこの地を確保できたのは、創立者である古賀喜三郎が、海軍出身であっただけでなく、娘婿の江頭安太郎(当時、海軍省軍務局勤務、後の海軍中将)の働きに負うところが、大であった。
1927年(昭和2年)- 現在:豊多摩郡大久保町字百人町(現在の新宿区大久保3-6-1)
海軍省より霞が関の借用地の返還を求められ、代替地としてこの官有地を30年間借用する契約がなり、移転。