海原はるか・かなた
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海原はるか・かなた
戎橋南詰戎舞台にて
2015年1月10日、今宮戎神社十日戎
メンバー海原はるか
海原かなた
結成年1970年
事務所ケーエープロダクション
(1970年 - 1998年)
松竹芸能
(1998年 - )
活動時期1970年 -
師匠海原お浜・小浜
出身明蝶学院
出会い明蝶学院
現在の活動状況テレビ・ライブなど
芸種漫才
公式サイト公式プロフィール
受賞歴
2000年 上方漫才大賞奨励賞
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海原はるか・かなた(うなばらはるか・かなた)は、松竹芸能所属の漫才コンビ。師匠は海原お浜・小浜
メンバー
海原 はるか(うなばら はるか  (1948-05-06)
1948年5月6日(76歳) - )
熊本県熊本市出身本名:和泉 秀一。血液型はA型熊本県立済々黌高等学校卒業。立ち位置は向かって右。基本的にツッコミ担当。
海原 かなた(うなばら かなた  (1947-11-12) 1947年11月12日(76歳) - )
奈良県天理市出身本名:西尾 伊三男。血液型はO型。立ち位置は向かって左。基本的にボケ担当。
デビュー

1968年昭和43年)ともに役者志望で来阪し、松竹新喜劇俳優曽我廼家明蝶の開設の俳優養成所「明蝶芸術学院」の役者科に4期生として入る[1]

1970年はるかは先輩から「まじめに漫才やっていたらいずれ芝居の仕事も来る」と言われ、卒業後、漫才の道に。海原お浜・小浜の門下となり同じ一門の兄弟弟子と組む予定であったが頓挫。

かなたは歌手志望で上京したこともあったが芸能界を離れトラック運転手をしていたが、数ヵ月後はるかに手紙で誘われ同じく海原お浜・小浜の門下になる。同年8月11日大阪梅田トップホットシアターで初舞台。
略歴と芸風

若い頃(1970年代初頭)は、
中田カウス・ボタンを筆頭とする『アイドル漫才師』のはしりの内の一組であり、若者の風俗とスピード感溢れるしゃべくりを駆使し、次代の上方漫才を牽引するコンビと目されながら数々の賞レースでは次席という、苦渋を舐め続けてしまう。その後、芸風が壮年になるにつれ、とちりの多さ、テンポ滑舌の悪さが目立ち出し、中堅扱いのままくすぶり続けた。なお、若手時代はケーエープロダクションに所属しており、きょうだい弟子に海原千里・万里[2] がいた。のちに松竹芸能に移籍。


2000年平成12年)頃、ネタの最中にひょんな事からはるかが実はハゲだった事が発覚、観客はもとより相方かなたまで爆笑してしまった。しかしこれがきっかけで人気は急上昇、世間的な知名度も上がっていった。
はるかの1・9分けとも言える髪の毛(片側の生え際の髪を長く伸ばしてハゲの部分を覆っている)に向かって、かなたが「フッ」と息を吹きかけると見事に髪がめくれて地肌が露出し、はるかが連獅子のごとく首を回すように振るとそれが元に戻る、という一連の流れを特徴とする。この髪の毛を飛ばす吹き方は高度な熟練技であるらしく、上手くピンポイントで吹きかけないと髪の毛が飛ばない。かなたは「初めての人がこれをやると上手くいったためしがない。でも私はこれを長年の経験から勘でやっている」という。加えて、はるかの残っている髪の毛に軽くパーマを当てるなど、細かい下準備にも抜かりがない。ボルトボルズ空気砲で「フッ」を成功させたこともある。2022年6月、はるかは自分のネタについて、「売れるためにはやめないこと、必死でやること。必死でやっていたら何かが見つかる」と話し、薄毛ネタもそうした中でできたと説明している[3]

かなたが代わりのスリッパで馬役のはるかを叩きまくる競馬ネタや、はるかが自慢のを披露する歌謡ネタなども持ち芸。

よゐこヤングタウン』で、有野晋哉が浪花座で見たメチャクチャおもろい芸人として紹介し、仲間内にも宣伝して回ったところ、めちゃイケ総監督の片岡飛鳥も同調し、同番組の笑わず嫌い王決定戦に起用された結果、全国区になった。よゐこのお陰で売れたことに恩義を感じ、それ以来はるかかなたの2人は、息子のような歳のよゐこの2人を師匠と呼ぶが、これはあくまでも演出上(ネタ)でのことである。

両者ともに元々役者志望だったため現在でも度々Vシネマや映画にも出演している。かなたは日活等の古い映画の知識が豊富。

2006年大晦日の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!・絶対に笑ってはいけない警察24時』では、はるかのみがヘリで登場。罰を受ける3人から笑いを取った。これに先がけて撮影された松本人志初監督作品「大日本人」にも、序盤の重要な役どころで出演した。

2010年10月24日 芸能生活40周年記念「海原はるか・かなたのピンポンダッシュ!」を大丸心斎橋劇場で開催した。

はるかは、俳優の田山涼成に似ている(ただし、はるかの方が3歳年長)と言われる事が多く、2011年6月23日放送の『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ)のコーナーの『グルメチキンレース・ゴチになります!』にレギュラーである田山の代理として出演した[4]

2015年9月に開催のイベント「大阪ラフフェス! in 中之島 6 DAYS LIVE」で上演された吉本新喜劇に客演。松竹芸能所属の芸人がライバル関係の吉本興業の新喜劇にフルで出演するのは、これが初めてとなる[5]。(2015年 笑福亭鶴瓶が短時間、なんばグランド花月の新喜劇の舞台に立った。)

海原しおりの逝去後は、海原小浜・お浜門下で、唯一コンビ活動を継続している漫才師となった。

1960年代前半に東京で「大空はるか・かなた」という漫才コンビが活動しており、「はるか・かなた」の芸名で見た場合、海原はるか・かなたは二代目に当る。因みに、大空はるかは後の青空はるお、大空かなたは後のケーシー高峰である。これに際して、二人はケーシーに「師匠、名前もらいました」と伝えたという[6]

2016年4月に発生した熊本地震では、はるかはテレビの仕事で故郷熊本市に帰っていて実家で被災。その後テレビ出演もキャンセルとなり急遽大阪市に戻った。産経新聞の取材に「さすがに2回目(本震)は、怖くて眠れませんでした」と地震の恐怖を語っている[7]

かなたはギャル曽根並みの大食いで朝食バイキングを時間いっぱい三時間食べまくる。

出囃子が必要な時はTOKIOの「宙船」を使う。

はるかは、昔のマネージャーに『社員に名前を覚えてもらえるように毎日会社に行きなさい』と言われたことを守り、大御所となった現在も毎日のように事務所に赴き、コピーなどを行っている[8]

2023年1月7日に行われた松竹芸能が主催するライブ『松竹芸能大新年会?年一あるかないかのメンバー勢ぞろいネタライブ?』におけるトーク企画では、はるかが75歳になる今年、ヌード写真集を出すと発言。 70歳よりもいい体を作って撮ろうとトレーニングに励んでいる[9]

受賞

2000年 上方漫才大賞奨励賞 

主な出演

くまパワJ
(熊本朝日放送)

CM

ケンミンの焼ビーフン


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