海兵隊戦争記念碑
Marine Corps War Memorial
アメリカ合衆国
海兵隊戦争記念碑
全ての戦争で亡くなった海兵隊員と、彼らとともに戦った他の海兵隊員を追悼
完成1954年11月10日
70年前
所在地.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度53分25.6秒 西経77度04分11.0秒 / 北緯38.890444度 西経77.069722度 / 38.890444; -77.069722
海兵隊戦争記念碑(かいへいたいせんそうきねんひ、United States Marine Corps War Memorial)または硫黄島記念碑(いおうじまきねんひ、Iwo Jima Memorial)は、アメリカ合衆国バージニア州アーリントン郡にある戦争記念碑である。この記念碑は、1775年の大陸海兵隊設立以来のアメリカ合衆国のために命を落としたアメリカ海兵隊員を記念するものである[1]。ジョージ・ワシントン・メモリアル・パークウェイ(英語版)のアーリントン・リッジ公園(英語版)の中にあり[2]、近くにはアーリントン国立墓地のオード・ワイツェル門とネザーランズ・カリヨン(英語版)がある。1954年に製作され、1955年に公園を管理する国立公園局に引き渡された。
この記念碑は、第二次世界大戦中の1945年2月の硫黄島の戦いにおいて、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子をジョー・ローゼンタールが撮影した写真(硫黄島の星条旗)を元にしている[3]。
歴史元となった写真『硫黄島の星条旗』記念碑のモデルとなった6人の海兵隊員
#1, ハーロン・ブロック伍長
#2, ハロルド・ケラー(英語版)伍長
#3, フランクリン・スースリー上等兵
#4, マイケル・ストランク軍曹
#5, ハロルド・シュルツ(英語版)上等兵
#6, アイラ・ヘイズ上等兵摺鉢山での2回目の星条旗掲揚の様子(ビル・ジェノウスト(英語版)軍曹撮影。1945年のドキュメンタリー映画"To the Shores of Iwo Jima"より)夜の海兵隊戦争記念碑
1945年2月23日、硫黄島の南端の摺鉢山を占領した海兵隊は山頂に星条旗を掲げたが、最初に掲げたものは小さすぎて山麓から見えないとして、より大きな星条旗が6人の海兵隊員によって掲げ直された。ローゼンタールが撮影したのはその2回目の掲揚の様子であり、この記念碑の中心にある像はその写真を元に作られた。掲揚の様子をビル・ジェノウスト(英語版)軍曹[注釈 1]がローゼンタールの横に立ってカラー映像で撮影しており、その映像から、2回目の星条旗掲揚は「やらせ」ではないことが判明した。ローゼンタールの写真に写っているのは、右から以下の6人である[注釈 2][4]。
1人目: ハーロン・ブロック伍長(戦死)
2人目: ハロルド・ケラー(英語版)伍長
3人目: フランクリン・スースリー上等兵(戦死)
4人目: マイケル・ストランク軍曹(戦死)
5人目: ハロルド・シュルツ(英語版)上等兵
6人目: アイラ・ヘイズ上等兵
当時アメリカ海軍に従軍画家として入隊していた彫刻家のフェリックス・ド・ウェルドンは、この写真を見て、週末の1日で像のマケット(英語版)(原型)を作った。ド・ウェルドンは建築家のホレイス・W・ピーズリーとともに記念碑の設計を行い、記念碑建立の提案を連邦議会に提出したが、戦時中は資金を調達することができなかった。1947年、記念碑建立の資金を調達するための基金が設立された。
海兵隊連盟(英語版)が記念碑の建立を承認し、ド・ウェルドンに像の製作を依頼した。1951年に連邦議会に承認され、記念碑の建造が開始された。ド・ウェルドンは3年かけて石膏で原寸大の原型を制作した。人物の高さは9.8メートルだった。これを分解してそれぞれをブロンズで鋳造した。土台は、スウェーデン南部のロンスボダ(英語版)の採石場で採れた花崗岩でできている[5]。
海兵隊が硫黄島に上陸してからちょうど9年後の1954年2月19日に起工式が行われ、第20代海兵隊総司令官レミュエル・C・シェパード(英語版)が鍬入れを行った。