海上保安庁の歴史
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海上保安庁の歴史においては、海上保安庁の活動の歴史と組織の沿革を記す。
目次

1 前史

2 創設

2.1 組織の沿革

2.1.1 草創期の職員



3 活動年表

3.1 警備任務等

3.2 海難救助等


4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

前史

大日本帝国時代、日本周辺海域における法秩序の維持については、旧海軍が実働部隊となってきた。しかし1945年(昭和20年)の降伏に伴って日本は非軍事化され、海軍も掃海部隊を除いて解体された。これによって洋上治安維持能力は大きく損なわれ、海賊すら出現する状況に至っていた。これに対し、政府は日本側の手による洋上治安維持組織の創設を模索しており、運輸省に水上監察隊を設置する構想、農林省に海上監視隊を設置する案、大蔵省の税関を強化する案、旧内務省の警察組織を強化する案などが検討されていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)としては、当初は日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採っており、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、いずれも進展しなかった。

しかし1946年(昭和21年)初夏ごろより、朝鮮半島からの輸入感染症としてコレラが九州に上陸し、猛威をふるいはじめた。その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同年6月12日、GHQは日本政府に対し不法入国取り締まりの権限を付与する旨の覚書を通達した。これを受け、7月1日、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として九州海運局に不法入国船舶監視部が設置された。しかしこの時点で、保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみ、武装は一切なし、要員も運輸省職員で、取締業務の経験者は一人もいなかった。大久保武雄監視本部長は、第二復員局の掃海艇・要員の応援を求めたが、GHQにより却下された。
創設

この時期、GHQ側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、アメリカ沿岸警備隊よりミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた。ミールス大佐は、アメリカ沿岸警備隊をモデルとした、海上治安の一元的な管理機関の設置を提言した。これを受けて、関係各省の間の所轄争いを経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省外局として海上保安庁が設立されることとなった。

しかし創設にあたっては、武装した海上保安機構の創設に対するGHQ民政局コートニー・ホイットニー准将)の反発を受け、下記の6項目が科せられることとなった[1]
職員総数1万名を超えない

船艇125隻以下、総トン数5万トン未満

各船艇1500排水トン未満

速力15ノット未満

武装は海上保安官の小火器に限る

活動範囲は日本沿岸の公海上に限る

海上保安庁の創設にあたり、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。これらの部隊は、引き続き第二次世界大戦中に敷設された機雷に対する掃海・航路啓開作業にあたっていた。しかし1950年昭和25年)に勃発した朝鮮戦争において、洋上戦力で劣る北朝鮮軍機雷戦を展開しており、一方、それに対処すべき国連軍は対機雷戦戦力の不足に悩まされていた。このことから、アメリカ極東海軍から運輸大臣への命令に基づき、海上保安庁より掃海部隊が派遣され、朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施することとなった。詳細は「日本特別掃海隊」を参照

これらの活動はおおむね順調に遂行され、米側より非常に好評であった[2]。しかし元山上陸作戦に伴う同地での掃海活動では、第2掃海隊のMS14号艇が掃海中に触雷・爆沈し、乗組員1人が殉職、18名が重軽傷を負う被害を出した。その後、海保側指揮官が掃海活動の方針変更を具申したのに対し、米軍側指揮官がこれを恫喝的な態度で拒絶し、帰国か作業続行かを要求したことから、第2掃海隊の残り3隻がただちに帰国するという事態になっている[3]

1952年昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁(のちの防衛庁2007年以降は防衛省)創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により、結局は保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま廃止され、それに代わる防衛庁設置法自衛隊法が制定された。そのため、海上保安庁は改組による消滅を免れ、現在に至るまでその状況が存続している。
組織の沿革


1946年(昭和21年)

7月1日:前身として、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部を設置。


1948年(昭和23年)

5月1日:運輸省の外局として、海上保安庁設置。長官官房、保安局、水路局、燈台局の1官房3局の構成。全国9か所に海上保安本部設置。本部の名称には設置場所の地名を冠称。


1948年(昭和23年)

5月12日:旧海軍省庁舎にて業務開始。5月12日は開庁記念日とする。


1949年(昭和24年)

1月1日:船舶検査業務を運輸省から移管。6月1日:海上保安庁長官を補佐する職として海上保安庁次長を設置。内部部局は長官官房、警備救難部、保安部、水路部、燈台部の1官房4部の構成。海上保安学校設置。所在地は母体の海上保安教習所、水路技術官養成所、燈台官吏養成所がそれぞれあった東京都江東区越中島、神奈川県茅ヶ崎市、横浜市に分散。


1950年(昭和25年)

6月1日:シーマン系のトップとして、海上保安庁次長の同等職たる警備救難監を設置。長官官房を総務部、保安部を海事検査部にそれぞれ改称するとともに、船舶技術部を新設し、本庁は6部構成。全国の海域を第一海上保安管区から第九海上保安管区に分け、海上保安本部の名称を地名から管区名(番号名)に改称。11月1日:海上保安学校から初任訓練を分離し、広島県呉市に海上保安訓練所を設置。


1951年(昭和26年)

4月1日:海上保安大学校を東京都江東区越中島に設置。海上保安学校は京都府舞鶴市に移転統合。


1952年(昭和27年)

4月26日:本庁に経理補給部を新設し、7部構成。同日に「海上保安庁法の一部を改正する法律」(昭和27年法律第97号)の公布・即日施行により、海上警備隊を設置。5月1日:海上保安大学校を広島県呉市に移転。7月31日:保安庁法(昭和27年法律第265号)が公布、第27条で保安庁海上公安局を置くとされ、海上公安局法(昭和27年法律第267号)も公布される。海上保安庁の海上警備隊職員は保安庁の警備官(後の海上自衛官)になる。8月1日:海上警備隊を保安庁所管の警備隊として分離。船舶検査業務は運輸省船舶局に移管し、海事検査部は廃止して6部構成。


1954年(昭和29年)

7月1日:防衛庁設置法(昭和29年法律第164号)附則第2項により海上公安局法の廃止


1955年(昭和30年)

4月1日:海上保安訓練所を廃止し、業務を海上保安学校に統合。


1957年(昭和32年)

4月4日:水路部を除く本庁を旧海軍省庁舎から中央合同庁舎第1号館(現農林水産省)南棟に移転。


1962年(昭和37年)

1月1日:第七管区から分離して第十管区を新設。


1972年(昭和47年)

5月15日:沖縄復帰に伴い、第十一管区(旧琉球海上保安庁)を新設。11月27日:水路部の新庁舎が東京都中央区築地に竣工。


1973年(昭和48年)

1月22日:水路部を除く本庁は、運輸省が入居する霞が関合同庁舎第3号館の増設階に移転。


1984年(昭和59年)

7月1日:本庁の経理補給部と船舶技術部を統合し、装備技術部を設置して5部構成。警備救難部の所掌事務のうち、通信設備、航空機に関する業務は装備技術部に移管。


1988年(昭和63年)

4月1日:海上保安庁創設40周年を記念し、海上保安庁音楽隊が発足。その後2004年3月末までの演奏実績は387回を数える。


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