浮世絵
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左上から:

菱川師宣見返り美人図』 17世紀後半

奥村政信『芝居狂言浮絵根元』 1743年

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』 1794年

喜多川歌麿『汗を拭く女』 1798年

歌川国芳『相馬の古内裏』 1845年-1846年

浮世絵(うきよえ)は、日本江戸時代初期に成立した、絵画ジャンルのひとつ。
概要葛飾北斎富嶽三十六景 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}駿州江尻(すんしゅうえじり)』/1831-35年頃。東海道江尻宿傍の姥ヶ池(うばがいけ)手前を描く。明治の浮世絵

江戸時代までの絵画は公家、大名などの庇護による土佐派狩野派が主であった。その中で風俗画も描かれていたが承応年間頃(1654年)には衰退し、庶民階級による風俗画が描かれるようになった[1]

これは、土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師が浮世絵の源流を形作ることになったことによる。明暦の大火により江戸の町が焼き尽くされた後、町人の経済力は強くなり風俗画はその階級の気風の要求に応えるものに変化していった[2]岩佐又兵衛の工房による風俗画はそれまでの風俗画と浮世絵を繋ぐものであり[注釈 1]、菱川師宣に至り風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで浮世絵の始祖と呼ばれている[4][5][6]

浮世絵の作品形態は、肉筆画[注釈 2](筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ[7]、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる[8]。商業資本たる版元の企画の下での、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることによって、廉価で販売、版本の場合は貸し出すことが出来た[9][10]

題材は、大名や武家などの支配階級ではなく庶民町民階級からみた風俗が主であり多岐に及ぶ。初期には歌舞伎遊郭などの享楽的歓楽的世界[注釈 3]が対象となっており多くの役者絵美人画が描かれていった。後に武者絵風景画名所絵)など数多くの題材に拡がっていった[12][13]。同時に流行や報道的な社会性を帯びていることから、江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために度々内容に規制をかける禁令が幕府より出される事態にもなった[14]

19世紀後半になるとパリ万国博覧会(1867年)に浮世絵も正式出品され反響を呼び、ジャポニスムのきっかけにもなり印象派の画家たちに影響を与えた[15]。20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている[16]
語源

「浮世絵」の語の初出は、1681年(延宝9年)の俳書『それそれ草』での「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」である[注釈 4]

「浮世」とは、平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源であり[18][19][20][21]、一例として『伊勢物語』では「つらいことの多い世の中」という意味で用いられる[18][22][注釈 5]。一方で、同時代の「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三代集では「世のうき時」「うき世の中」といった表現が多く未だ語句として定まっておらず、「うき世」が多用されるのは平安時代中期の「後拾遺和歌集」以降である[18]。平安時代末期になると定めない無常の世という観念が付加され「浮き世」と表記されるようになるが、これには漢語「浮生」の影響もあったとされる[18][19][21][注釈 6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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