浪花百景
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浪花百景(なにわひゃっけい)は、100枚の風景錦絵と2枚の目録からなる上方浮世絵木版画の組み物[1]。3名の絵師、國員芳瀧芳雪による合作で、幕末大坂の版元「石和」より刊行された。浪華百景[2]、浪花名所百景[3]とも。
概要[ソースを編集]

その名の通り「浪花」(大坂)の百の景色を描いた名所絵の浮世絵シリーズである。幕末の大坂の町のようすや庶民の姿が生き生きと描かれている。後年の開発と戦災で姿を消した川や橋も多数見られる。

目録(もくじ)2枚と、100枚の風景浮世絵から成る。それぞれの目録には「浪花名所百景」という題字と50ずつの画題が書かれている。風景絵には「浪花百景」と個別の題字、絵師の名、版元の名が書かれている。
もくじ[ソースを編集]もくじ (1)もくじ (2)

2枚の「もくじ」(目録)の右肩には「浪花百景」ではなく「浪花名所百景」の題字が見られる。もくじに書かれた表題には、100枚の浮世絵に書かれた画題とは異なる表記のものも多い。
絵師[ソースを編集]

浮世絵の絵師は大坂の浮世絵師、歌川國員中井芳瀧森芳雪の3名である。

歌川國員(一珠斎、生没年不詳) - 40枚

里の家芳瀧(一養斎、中井芳滝、1841 - 1899) - 31枚

南粋亭芳雪(森芳雪、1835 - 1879) - 29枚

版元[ソースを編集]

版元は大坂・北浜の石川屋和助(石和)[4][5]

2枚の「もくじ」には「平野町 石和 淀屋橋」という記載がある。「平野町」は、現在の大阪市中央区平野町にあたる。
描かれている地[ソースを編集]

ほとんどが現在の大阪市域の名所や町である。大阪市以外では、淀川を少しさかのぼった位置にある守口市(佐太村天満宮)、高槻市(三嶋江)の風景が含まれる。
特徴[ソースを編集]


あみ嶋風景天満ばし風景


「縦型構図の名所絵」[6]で、全編が縦長の長方形、「中版」と呼ばれるやや小ぶりの版型で構成されている。

寛政8年 - 同10年刊行の『摂津名所図会』や安政3年 - 同5年刊行の安藤広重名所江戸百景』、安政2年年刊・文久3年再刊の『浪華の賑ひ』の影響が指摘されている[6][1]

一枚ずつで刊行されたと考えられるが、冊子にまとめられたもの[5]や絵巻状にまとめられたもの[2]も残る。

幕末の大坂の町のようすや庶民の姿が生き生きと描かれている。またその多くに「水」と「橋」が描かれている。

「あみ嶋風景」と「天満ばし風景」は左右、続きの構図となっている[5]

制作・刊行時期[ソースを編集]

企画・制作・刊行は幕末の1800年代後半と考えられるが、102枚の浮世絵がいつどのように刊行されたか明確な記録はない。頴川美術館学芸員八反裕太郎は、『浪花百景 大坂名所案内』(2010) で、以下のとおりいくつか説があり、

嘉永期 (1848 - 1854)

安政期 (1854 - 1859)

文久期 (1861 - 1863)

慶応期 (1865 - 1868)

と紹介したうえで、.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}『名所江戸百景』に触発されて安政期頃に企画され、文久から慶応あたりまでかかりようやく成立したのではないだろうか

と考察している[5]
画像情報一覧[ソースを編集]

表題場所[7]作者関連項目読み・備考
もくじ (1)ー作者不詳
もくじ (2)ー作者不詳
浅沢の弁才天住吉区里の家芳瀧/画浅澤社

アサザワノベンザイテン[O-lib 1]
安治川ばし西区・福島区歌川國員/画安治川橋

アジカワバシ[O-lib 2]
あみ嶋風景都島区歌川國員/画網島町

アミジマフウケイ[O-lib 3]
あみだ池西区里の家芳瀧/画和光寺

アミダイケ[O-lib 4]
生玉絵馬堂天王寺区歌川國員/画生國魂神社


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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