浪打峠
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浪打峠。2022年9月8日撮影。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}浪打峠 浪打峠の位置

浪打峠(なみうちとうげ)は、岩手県二戸郡一戸町から同県二戸市にかけての峠。標高は302m。峠には明治天皇が東北巡幸の際にここで休憩した記念碑、北白川宮能久親王御休息地碑、浪打峠交叉層記念碑などがある。一戸町側には一里塚がある。峠には巨大な三葉松があったが1890年(明治23年)の暴風雨で倒れてしまう。一戸高校の校章は末の松山の三葉の松をもとに構成されている。
概要

奥州街道が通り、一戸町側の峠手前には浪打峠一里塚がある。峠周辺を含め二戸郡一戸町・岩手郡岩手町の一部の旧奥州街道は国の史跡2010年2月22日に指定されている[1]。また、峠両側の崖は浪打峠の交叉層と呼ばれ、粗粒砂岩層に「偽層」(クロスラミナ)が堆積して縞模様となっている。交叉の様子もはっきりし、外見が美しく、その規模も大きいことから、天然記念物1941年昭和16年)8月1日に指定された[2]

菅江真澄は随筆「ふでのまにまに」で「その国の薬師の小野寺玄竜という人が、濤嶺賦という本を書き、浪うち坂の由縁をもっぱら記述したと、読んだ人が語った」と書いている[3]
歴史明治天皇御野立之碑。2022年9月8日撮影。北白川宮能久親王御休憩之碑。2022年9月8日撮影。

波打峠は18世紀後半以降、歌枕の「末の松山」(宮城県多賀城市末松山宝国寺説も有力)に比定されてきた。「浪打峠の交叉層」は「末の松山層」[要出典]とも言われることがある。浪打峠の下を貫通しているトンネルの名称は「末の松山トンネル」[要出典]である。

1660年(万治3年) 「八戸紀行」(渡部盆庵) 浪打(坂・峠)についての記載がある。

1691年(元禄4年) 「奥羽道記」(丸山可澄) 浪打坂についての記載がある。

1698年(元禄11年) 「奥羽永慶軍記」(戸部正直) 九戸政実の乱に関する記事の中で波打峠の記載あり。「絶頂左右の岩には貝殻多し。故に波打山とは云ふなり」とある。

1777年(安永6年) 「奥の荒海」(小磯逸子) 途中歌を詠みながらの旅であるが、浪打峠についての記載はない。

1764年-1800年(明和?寛政年間) 「邦内郷村志」(大巻秀詮)に「末ノ松山」の記事あり。「末の松山は奥街道にある。この山嶺を歴(こゆ)る往来で、南北に浪打峠と接している。」「他邦に同名所がありといえども、杜撰で取るに足らず、信用することなかれ」としている。證(あ)かしの歌として、清原元輔の「ちきりきな かたみに袖を しほりつつ 末のまつ山 なみこさしとは」の一首のみを示し、詳細は『南部旧秘録』に別載してあるので、ここでは略すとした。

1785年(天明5年) 「けふのせばのの」(菅江真澄) 浄法寺から一戸経由で南下する途中、寄り道している。「築館(月館)、十日市、中澤(中里)、一戸の里の外れからしばらく進み『をのがつま波こしつつや恨むらん末の松山雄鹿鳴也』と、家隆が詠った歌を暗唱しながら麓についた。今は、浪打坂、浪打峠という。 上れば、土の中から波間から拾うように小貝を掘って筒に入れる旅人がいる。」 そして、歌枕壷の碑、玉川、十符の里に多数の所在地が想定されていることをあげ「この末の松山が仙台の方にもあるのは夫木集の『波にうつる色にや秋の越えらんみやぎが原のすゑのまつ山』(藤原俊成女)という歌のせいだろう。しかし、本中末の松がそこにはない。この波打峠は近い所に中山という宿場がある。これが中の松で、本の松は盛岡にあるという人もいる。どれが本当の話だろう。」と記している。

1788年(天明8年) 「いわての山」(菅江真澄)陸奥胆沢の郡を発って松前への道を取った。「一戸を発つ。土用は昨日だった。あくる日は朝早く涼しいうちに波打ち峠に向かった。盛岡に松ケ坂がありそこが本の松、昨日通った中山には中の松があり、ここは末の松山[4]だと人は言う。宮城郡にあるのとは、どちらが正しいだろうか。俊成女の和歌もある。峠になれば、山より出る筆貝、松の皮貝、浜かづらなどが砕けた破片を人々が拾って筒に入れている。まさに『波打ち際』だ。そういうわけで山坂の名が出て来たのだろうか。もはや、末の松山とはもっぱら言わないのだろうかと語っていると松村という所に降りて来て、さらに福岡に達した。」

1790年(寛政2年) 9月22日「北行日記」(高山彦九郎)九戸から一戸経由で北上し、「末の松山一見せんとて町を北へ出で、(略)左右の山松有り、艮に向ふて上り乾に下る、是れを波打坂と号す、即ち末の松山名所也、頂上に左右薄白き岩有り、左の岩二十間斗也高さ壱丈四五尺柔らかなる岩にて貝がら多ふく付て有り予爪を立てて取りぬ 」。

1793年(寛政5年) 「北行日録」(木村謙次) 浪打坂の記事あり。

1799年(寛政11年) 「未曾有記」(遠山景晋) 末の松山の記事あり。

1799年(寛政11年) 「蝦夷蓋開日記」(谷元旦)、「東遊奇勝」(渋江長伯) 波打峠と末の松山の記事あり。

1801年(享和元年) 「蝦夷の島踏」福居芳麿)「さと人はこれをすゑの末山の跡などいへり。


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