浦和宿(うらわ しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場[注釈 3](武蔵国のうち、第3の宿[注釈 4])。
また、北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によってつながっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。
概要さいたま市緑区に移築された浦和宿本陣表門
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡浦和郷浦和宿[注釈 5]。浦和宿は上町(後に常盤町)・中町・下町(後に高砂町)からなり、現在は住居表示実施を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場はなく、北隣の宿場は上尾宿であった。 浦和宿は幕府直轄領であった。徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・さいたま市浦和区常盤一丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。 道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2 km)。宿内人口1,230人(うち男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)[1]。 現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく[2]、江戸期の浦和宿の人口は、武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち8番目と少なかった。 宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり[注釈 6]、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2 km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かつての市場の様子を伝えている。六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗[注釈 7]で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。 星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。
浦和宿の特徴
浦和御殿
宿場より市場の賑わい