浦上宗景
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 凡例浦上 宗景
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没不明
別名与次郎(与二郎)、帯刀左衛門尉[1]
官位遠江
幕府室町幕府
氏族浦上氏
父母父:浦上村宗[1]
兄弟政宗[1]、宗景
宗辰成宗
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浦上 宗景(うらがみ むねかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備前国戦国大名
生涯
兄との対立

享禄4年(1531年)、父・浦上村宗大物崩れで戦死後、兄・政宗が幼少にして家督を相続していた。

天文20年(1551年)、宗景は尼子晴久の備前侵攻に際し、その対応を巡って、政宗と意見が分かれる。そこで宗景は政宗とは別の権力体を作り上げ、尼子氏の脅威にさらされている国内の国衆と団結。尼子氏に与同した兄と完全に対立し、浦上氏は分裂する。

天文23年(1554年)頃、天神山城で旗揚げした宗景は、尼子氏と同盟を組んだ政宗に対抗すべく、安芸国毛利元就と同盟した。毛利本隊や毛利氏に従う備中国三村家親率いる「備中衆」の援軍を得て各、地で政宗と尼子氏の連合軍を撃破し、永禄3年(1560年)頃までには、政宗の勢力を備前東部から駆逐し、備前の支配権を握った。

ただ、備中の三村氏同様、あくまでこの時点では毛利氏の庇護下に置かれていて、また内政面でも毛利氏の介入を受けるなど、戦国大名として脱皮したとは言い難い状況に置かれていた。また、美作国に置いて勢力を伸ばす三村氏とは軋轢が生じ始めており、相当弱体化したとはいえ、兄・政宗の勢力も未だ備前に健在で、敵はまだ多かった。
毛利との決別

永禄6年(1563年)5月頃、政宗と和睦して後顧の憂いを断った宗景は、三村家親とも戦闘に突入。同年12月までに毛利氏とも断交し戦国大名としての道を歩み始める。

永禄7年(1564年)、政宗とその嫡男・清宗赤松政秀(または赤松晴政)に殺害されるという事件が起こるものの、跡を継いだ浦上誠宗に特に変わった動きは無く、三村との戦いに専念した宗景は、明善寺合戦での勝利などを経て、永禄10年(1567年)には備前から三村・毛利の勢力を駆逐する事に成功する。

同年、浦上惣領家の誠宗を暗殺し、永禄11年(1568年)には備前国内有数の国人松田氏を滅ぼして、その版図を瀬戸内海の児島を除く備前全域と美作東南部に拡大させ、戦国期の浦上氏の地位を確立する。

ただし、これに至るまでの戦いで大きな戦果を上げた宇喜多直家や直家家臣の岡氏や長船氏は、あくまでも独立性の強い勢力であり、宗景とは「やや軍事的従属という形での同盟相手」といった形の勢力であったようで、大名とその家臣というような主従関係とは言い難かった。そこで、宗景は宇喜多領の水運など重要な拠点に直轄地を多く設けて、代官を派遣するなどして、直家の領内統治に制限を掛けていた[2]。また、美作に勢力を伸張していた浦上氏だが、直家に与えられた所領はあくまで西備前の周辺程度に留まっていて、美作の統治は沼本氏や菅納氏らの在地の国人がそのまま行っており[3]、今日に誤って伝聞されているような「主家を凌ぐ」というほどでは無くあくまで一陪臣レベルのものに過ぎなかった。しかしながら、直家の勢力は松田氏の旧領の一部や家臣などを取り込んで、備前への影響力を増しており、これらの要素は後々宗景にとって不利に働くこととなる。
直家、最初の離反

永禄12年(1569年)、旧播磨守護家の赤松義祐赤松則房播磨国の有力国人・小寺政職らと結んで、これの救援を名目に播磨における政宗の遺領を吸収して、西播磨において侮り難い勢力となっていた赤松政秀を討つため、備作衆を率いて播磨西部へ侵攻した。また、尼子氏再興を目指す尼子勝久などの反毛利の勢力を積極的に支援し、九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。


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