浦上天主堂
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浦上天主堂
カトリック浦上教会


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所在地長崎県長崎市本尾町1-79[1]
日本
教派カトリック
ウェブサイト浦上天主堂
歴史
創設日1879年 (1879)
守護聖人無原罪の聖母
管轄
教区カトリック長崎大司教区
教会管区カトリック長崎教会管区
聖職者
大主教
(大司教)ペトロ中村倫明
主任司祭使徒ヨハネ山村憲一
副主任司祭パウロ葛島輝義(協力司祭)
使徒ヨハネ中野健一郎
パドアのアントニオ西田祐尚
テンプレートを表示
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カトリック浦上教会(カトリックうらかみきょうかい)は、長崎県長崎市にあるキリスト教カトリック)の教会およびその聖堂である。聖堂は、旧称の浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)の名で一般的に知られており、長崎市の観光名所のひとつにもなっている。

1945年昭和20年)に長崎への原爆投下によって破壊されたが、1959年(昭和34年)に再建された。1962年(昭和37年)以降、カトリック長崎大司教区司教座聖堂となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会である。
教会の保護者

無原罪の聖母

概要原爆投下前の浦上天主堂

浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来以来カトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった(浦上崩れ)。

鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人長崎港の南の東山手南山手に居住区を作り、その一角に1865年元治2年)に大浦天主堂が建てられた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した司祭ベルナール・プティジャン神父に密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会へのカトリック信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が浦上の地へ戻り、1879年明治12年)に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年の1880年(明治13年)に浦上村の庄屋の跡地を買い取り、現在の地に移転した。

1879年(明治12年) - 浦上に小聖堂を建設。

1880年(明治13年) - 旧浦上村庄屋、高谷邸屋敷跡地に仮会堂を建設。

1895年(明治28年) 2月 - 大聖堂起工式を挙行、建設を開始。フランス人宣教師フレノーが設計計画を進める。

これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した[注 1]


1911年(明治44年) - フレノー師が亡くなり、ラゲ師が代わって工事を進める。

1914年大正3年) 3月17日 - 浦上天主堂が完成し、献堂式を挙行。煉瓦瓦葺357坪。

この日は、大浦天主堂での信仰告白からちょうど49年後にあたる「信徒発見の日」であった。


1925年(大正14年) 5月 - 正面の高塔ドームまでの工事が完成。請負は鉄川与助によるもの。

1945年(昭和20年)

8月9日 - 長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊。投下当時、8月15日聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・ラファエル西田三郎、助任司祭・シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。

後に浦上を訪れた俳人水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て『麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟』と詠んでいる。


11月23日 - 浦上のカトリック信徒約300名が、空虚と化した浦上天主堂わきの広場で、浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行。(原爆犠牲者慰霊の始まり)


1946年(昭和21年) - 被爆した天主堂は瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存。

1958年(昭和33年)

2月18日 - 長崎市議会臨時会、岩口夏夫ら15議員提出の元浦上天主堂の原爆資料保存に関する決議案を可決。

決議の内容 - 「元浦上天主堂は、今次大戦による原爆資料として貴重なることは周知の事実であるが、これが存置について長崎市議会は重大な関心を持つものである。よって残虚保存対策について更に努力を重ね善処されんことを要望する。」


2月26日 - 市議会の議決に基づき、長崎市長・田川務がカトリック長崎司教山口愛次郎と会見し、原爆により空虚と化した浦上天主堂の遺跡を現地に保存するよう要請。

3月14日 - 浦上天主堂再建のため、廃墟の取り壊しが始まる。(原爆遺構の撤去に至った背景については後述

3月17日 - 長崎市議会全員協議会、対策を協議し、廃墟全てを移築することは技術的・資金面から困難なため、一部を移築することに決定。移築場所・移築費用に関しては理事者に一任することとし、浦上天主堂原爆廃墟保存委員会の解散を決定。

7月11日 - 浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設し、被爆遺構として保存。高さ13m、幅3mの側壁が復元。


1959年(昭和34年) 11月1日 - 再建された浦上教会が、元の場所に旧天主堂の外観を模して完成。
再建後の浦上教会
(1964年撮影)

1962年(昭和37年) 1月1日 - 長崎大司教区の司教座聖堂に指定(それまでの司教座聖堂は大浦教会(大浦天主堂)であった)。


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