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浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。 1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。間もなく江戸幕府は瓦解するが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされた。 このことはキリスト教信仰の盛んな諸国から激しい非難を受けた。この頃、別件で政府使節として欧米へ赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達した。これにより1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)の全面禁教以来259年振りに、日本でキリスト教信仰が解禁されることになった[1]。 江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、改宗しないものは処刑する政策をとった。もともと長崎はカトリック教会とゆかりがあり、信徒たちが多く暮らしていたが、禁教令をうけた信徒たちは隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り、次代へ受け継いでいくことになった。そんな長崎の隠れキリシタンたちの間には、江戸時代の初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャンなる伝道士の予言が伝えられていた。それは「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」というものであった[2]。 1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。 しかし、2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。
概要
経過
発端
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