この項目では、神奈川県茅ヶ崎市の西浜海岸で毎年7月に行われる祭りについて説明しています。平塚八幡宮で毎年8月15日(例大祭の日)に行われる祭事については「浜降祭 (平塚八幡宮)
」を、神奈川県小田原市の松原神社、居神神社、山王神社で毎年5月、例大祭の日に行われるお浜降りについては「松原神社例大祭」をご覧ください。この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
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浜降祭(1999年7月15日) 浜降祭(2003年7月)
浜降祭(はまおりさい)は、毎年、7月の海の日に行なわれる神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸の祭りである。甚句とともにどっこい担ぎで渡御、巡行される。 浜降祭は、寒川町・茅ヶ崎市にある各神社の氏子たちが、その神社の神輿を担ぎながら一斉に海に入り、海から出た後は再び各地域まで神輿を担ぎながら戻り、地域を渡御する祭りである。平成の初め頃までは、海中に神輿を叩き込むこともある荒っぽい祭りだったが、近年は神輿の更新にかかる出費を抑えるため、担いで海に浸かる大人しい形に変わってきている。そのせいか、近年は女性や子供の参加者も増えてきている。 近年(少なくとも21世紀)では西浜海岸から遠い神社について、神社のある地域から西浜海岸まで神輿をトラックで輸送し、担ぎ手たちは貸切バスで移動するケースが多い(貸切バスには神奈中の路線バス車両が大量に動員される)。それ以前は、深夜0時ごろから各神社で宮出しが始まり、夜明けまでに西浜海岸に着くように担いで行っていた。
目次
1 解説
2 歴史
2.1 祭りの起源
2.2 年表(祭日の変遷など)
3 参加神社
3.1 寒川町
3.2 茅ヶ崎市
4 茅ヶ崎市のその他の祭り
5 脚注
6 外部リンク
解説
歴史
祭りの起源
浜降祭の起源については次の3つの説があり、3つ目の説が有力である。以下に紹介する。
天保9年(1838年)または天保11年(1840年)、寒川神社の神輿が、例年春に大磯で行われる国府祭(こうのまち)に渡御した帰りに相模川の渡し場で一ノ宮の寒川神社の氏子と四ノ宮の前鳥神社の氏子とが争いを起こし、御輿が川に落ちて行方不明となる。数日後、南湖の網元である鈴木孫七が漁の最中にご神体を発見し、寒川神社に届けたことを契機に、寒川神社の神輿が南湖の浜で「禊(みそぎ)」をするようになったという。争いは裁判となり、代官は四ノ宮の氏子16名に打首断罪の判決を下したが、処刑の日にその丁髷だけを斬り落として打首に代えたという。その「丁髷塚」が平塚市榎木町
江戸後期に幕府の昌平黌地理局がまとめた『新編相模国風土記稿』によれば、佐塚大明神(後に鶴嶺八幡宮に合祀)では寒川神社のお礼参りよりかなり昔から「みそぎ」の神事のための御輿の浜辺への渡御が行われていたという。
鈴木孫七による御輿の発見は偶然ではなく、探索の結果であり、御輿の紛失事件以前から寒川神社の浜での禊(ミソギ)は行われていた。寒川神社は相模川河口で、鶴嶺八幡は南湖の浜で別々に禊(ミソギ)を行っていた。それが場を南湖に統一され、合同で行われるようになり、諸社も参加するようになった。(永田衡吉『神奈川県民俗芸能誌』神奈川県教育委員会、1966年3月)
「3」の場所変更は御輿を発見した鈴木孫吉の功績に関係していると推定されているが、地震による河口の変遷も視野に入れるべきであろう。(旧相模川橋脚参照)
年表(祭日の変遷など)
1030年 - 源頼義は下総の乱を鎮定のため懐島郷(鶴嶺八幡宮のある場所)に源氏の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をする。(別に宇佐八幡宮勧請説もある)。
1191年 - 鶴嶺八幡大菩薩の隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。
1281年 - 蒙古退散の祈祷をし、6月閏30日の晦日に勝利したのを記念して「晦日祭」を始め、これが八幡宮と佐塚明神の例祭となった、と現在の鶴嶺八幡宮は説明している。民俗学者の永田衡吉は水無月の祓と考察している。鶴嶺八幡宮の説明は1876年以前には6月29日に行われていたという史実と合わない。(1876年の項参照)
1838年または1840年 - 寒川神社の御輿の紛失事件。
1841年 - この年に幕府の昌平黌地理局の編纂した「新編相模国風土記稿」に佐塚明神が6月29日に浜で禊(みそぎ)を行っているという記述がある。
1841年 - 南湖の御旅所神主の鈴木家は指貫風の烏帽子の着用を許可される。
1868年 - 太政官達は権現、天王、八幡大菩薩などの仏教的神号を禁じた。「佐塚明神」は「佐塚大神」(さづかのおおかみ)、「鶴嶺八幡大菩薩」は「鶴嶺八幡」となる。
1871年 - 太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が制定された。