浜田省吾
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浜田省吾
(2011年)
基本情報
生誕 (1952-12-29) 1952年12月29日(71歳)
出身地 日本 広島県竹原市
学歴

広島県立呉三津田高等学校卒業

神奈川大学法学部中退

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ロックンロール[1]

スタジアム・ロック[1]

ポップス[1]

職業

ミュージシャン

シンガーソングライター

作詞家

作曲家

ドラマー

担当楽器

ボーカル

ギター

ブルースハープ

ベース

ドラムス

パーカッション

ピアノ

キーボード

活動期間1974年 -
レーベル

CBS SONY

Sony Records

Clearwater

事務所

ホリプロ(1975年 - 1983年)

ロード&スカイ(1983年 - )

公式サイトSHOGO HAMADA OFFICIAL WEB SITE

浜田省吾
YouTube
チャンネル

浜田省吾 Official YouTube Channel

活動期間2012年 -
ジャンル音楽
登録者数41万人
総再生回数345,092,890回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人

チャンネル登録者数・総再生回数は
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テンプレートを表示

浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、日本シンガーソングライター[出典 1]

広島県竹原市生まれ[4]広島県立呉三津田高校卒業[出典 2]神奈川大学法学部中退。既婚。1975年愛奴のメンバー(ドラムスパーカッション)としてプロデビューし、1976年にシングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビュー

マスコミや一部のファン等から「浜省」「ハマショー」という愛称で呼ばれている[出典 3]
概要

デビュー時からサングラスがトレードマーク[出典 4]。ライブを自分の音楽のよりどころと考え、アーティストはライブやCDで成立しなければならないというこだわりを持ち[出典 5]、直接歌を聴いてほしいとの思いから[8]テレビ地上波出演は4回のみで[出典 6]、テレビの露出に頼らず[出典 7]、僅かな音楽雑誌のみを唯一音楽以外のメディアとして、その歩みを全うしてきた[出典 8]。自身の実体を大切にし続けながら[16]、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得[出典 9]。デビュー後の数年間は、事務所の方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた[出典 10]。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲[出典 11]の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し[出典 12]プロテスト色の強いアーティストでもある[出典 13]。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。

山口百恵和田アキ子能瀬慶子甲斐よしひろ松田優作時任三郎吉田栄作榊原郁恵真田広之烏丸せつこら、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している[出典 14]
来歴
幼少期

生家は現在も残っており、かつてファンクラブ誌上で訪問したことがある[36]。家族構成は本人、両親、姉2人。

父は戦前特高警察官[出典 15]、その後は地方警察署に勤務[出典 16]竹原警察署勤務時代の1945年8月6日広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した[出典 17]。浜田省吾は被爆二世にあたる[出典 18]

父の転勤のため、3歳から尾道市廿日市市広島市佐伯区、広島市南区元宇品と広島県内で転校を繰り返す[出典 19]小学校遠足原爆資料館を訪れ[26]キューバ危機の頃で「第三次世界大戦か?」と連日の報道と合わせ不安に怯える[26]。原爆投下の翌日、広島市内に入って見た悲惨な光景を父親から一度だけ聞かされた[10]。18歳までに20回近くの引っ越しを経験[5]。必然的に一人で遊ぶことが多くなり、空想好きで、音楽に対して敏感になった[36]。広島の事を思うと、楽しい思い出より、嫌な思い出の方がすぐに出てくるという[26]。こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している[36]

9歳のときに元宇品から[10]江田島の海沿いの町、鷲部に転居[出典 20]。警察官舎の部屋で、ラジオから流れるビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く[30]。浜田は2005年のアルバムMy First Love』に収録された「初恋」で「海辺の田舎町 10歳の頃ラジオから流れてきた“The Beatles” 一瞬で恋に落ちた」と歌い[出典 21]、島でかつて開かれた音楽イベントに「オレにとって『江田島』は『初恋のきた島』なのです」とメッセージを寄せている[出典 22]あいみょんしんちゃんカラオケで「初恋」を歌いたいという[39]。小学4年から中学1年まで過ごした江田島が浜田にとって音楽活動の原点になった[10]。雑誌に載った小さな写真で初めてビートルズを見たが「どの人がビートルズ」かと姉に聞いた[注釈 1]。当時洋楽ソロシンガーによる軽快なポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントだったギターを取り上げ、この頃からギター演奏を始める。学校でもホウキをギター代わりに演奏の真似をしたりしていた。雑誌などにビートルズの名前が載っていると、切り抜いてノートに張り付けたりしていた。

1965年、13歳の時に呉市汐見町に転居、呉市立二河中学に転校。以降は高校卒業まで呉市で育った。FEN岩国を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた[出典 23]。ビートルズの他には、モータウン・サウンドビーチ・ボーイズヤング・ラスカルズなどを好んで聴いた[18]。少年期の音楽体験については、渋谷陽一との対談集『ロックは語れない』などに詳しい他[出典 24]、しばしば歌詞に登場させる[5]。また、子供の頃はロックやポップスと並んで漫画が大好きな少年で、ずっと読んでばかりで親に怒られたという。ケント紙を買ってきて、枠線を引いて自分で漫画を描いて、クラスで回し読みしていた。今はほとんど漫画は読まないらしいが、『あしたのジョー』だけは未だに全巻揃えてあるという。
高校時代

1968年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校に入学[出典 25]。父の期待に応えたいという一心で受験勉強に励んだ。しかし、授業の合間の休憩時間にも全員が予習・復習をしているという環境に馴染めず。学校は丘の上にあり、何で聞きたくもない授業を聞いてなきゃいけないんだろうと窓の外を眺めていたら、同じように窓の外を眺めていた野球部に誘われ[26]、不良の溜まり場だった野球部に入部[出典 26]。ポジションは偉大な先輩・広岡達朗の呉三津田時代と同じサードだった[出典 27]。また、同じ進学校である修道高校で「ザ・グルックス」というバンドを組んでいた後の盟友・町支寛二と知り合い[出典 28]、「広島フォーク村」にも参加[出典 29]。「広島フォーク村」が1970年3月、上智大学全共闘のメンバーと製作したアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』には、浜田は唯一の高校生バンド・「ザ・グルックス」のメンバーとして参加し「波よけさないで」が収録されている[出典 30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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