浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田玄達、嘉永7/安政元年11月26日[1]〈1855年1月14日〉 - 1915年〈大正4年〉2月16日)は、日本の産婦人科医。医学博士。東京帝国大学医科大学教授、医科大学長を歴任。日本婦人科学会初代会長。日本における産科婦人科学及び助産師(産婆)養成の基礎づくりに貢献した。
経歴1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[2]。前列左より河本重次郎、山根正次、田口和美、片山國嘉、石K忠悳、隈川宗雄、尾澤主一[3]。中列左から森林太郎、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙、瀬川昌耆、北里柴三郎、江口襄[3]。後列左から濱田、加藤照麿、北川乙治郎[3]
肥後国宇土郡里浦村(現・熊本県宇城市三角町大岳)において[4][5]、熊本藩の医師濱田玄齊(波多村の医家からの養子)の長男として生まれた[6](旧名・慶吉)[5]。数え2歳で母を、11歳で父を亡くし、父方の伯父のもとで読書習字をならい、14歳で儒医福田元澤に入門、調剤の傍ら漢学及び蘭学を兼修した[6]。1870年(明治3年)10月開設の西洋医学の藩立病院、通称・古城医学校(熊本大学医学部の源流)への入学を許され、翌年招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトに師事した[4][6]。同窓には緒方正規、北里柴三郎らがいた。
マンスフェルトから緒方らとともに上京を勧められたが、学費の目処がたたず、辛うじて地元商家の学資支援を受け、1871年(明治4年)10月に大学東校入学(74年東京医学校に改称、77年東京大学医学部に改組)、極貧を凌ぎ苦学の末、1880年(明治13年)7月に東京大学医学部を首席で卒業し、医学士となった[5][6]。同年、古城医学校の系譜を継いだ熊本医学校教頭及び熊本県病院御用掛となり、医学校一等教諭、附属病院長、医学校長等を歴任[5]。篤学の生徒には夜に自宅でドイツ語を教授したという[6]。
1884年(明治17年)10月に依願退職し、念願の留学を実行に移し、私費で帝政ドイツへ渡った[5][6]。1885年(明治18年)2月シュトラスブルク大学(現・ストラスブール大学)に入学、産科婦人科学を専攻しフロイントに師事していたところ、東京大学医学部産婦人科学教授清水郁太郎の急逝(2月)に伴い[7]、同年4月文部省の命令で官費留学(産科婦人科学専修留学生[8])に切り替えられた[5][6]。1886年(明治19年)11月にはミュンヘン大学へ転学してヴィンケルに師事、翌年3月からは同大学附属の産科兼婦人科病院の当直医として実習した[5][6]。
1888年(明治21年)8月に帰国すると、翌9月に帝国大学医科大学教授に就任、産科婦人科教室主任となる[6]。翌年7月に大学の命で三宅秀・緒方正規・片山国嘉他とともに「本邦男女婚姻年齢取調委員」を務め[9]、1890年(明治23年)2月には渡辺洪基総長に「産婆養成所」開設建議案を提出[10]、その新設にこぎつけた[11]。