浜田光夫
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はまだ みつお
浜田 光夫
『映画情報』1965年2月号(国際情報社)より
本名浜田 斌
別名義浜田 光曠
生年月日 (1943-10-01) 1943年10月1日(80歳)
出生地 日本東京都牛込区(現・新宿区白銀町
身長168 cm[1]
血液型A型[1]
職業俳優
歌手
ジャンル映画
テレビドラマ
舞台
活動期間1955年 -
配偶者青園宴
事務所アートプロモーション
主な作品
映画
ガラスの中の少女
非行少女
キューポラのある街
泥だらけの純情
愛と死をみつめて
『君は恋人』
天平の甍』テレビドラマ
若い川の流れ
お荷物小荷物
なんたって18歳!
アイアンキング
赤いシュート!
あぶない少年』舞台
『闇に咲く花』

 受賞
エランドール賞
新人賞(1961年)
日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
第25回 実写映画部門(2016年)

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浜田 光夫(はまだ みつお、1943年昭和18年〉10月1日[2][3][4][5] - )は、日本俳優日活の黄金期を支えた看板俳優の一人。本名は浜田 斌(はまだ あきら)[4][5]

東京都[2][3]牛込区(現・新宿区白銀町出身[4]。玉川学園小学部、中学部、高等部卒業[6]日本大学芸術学部[2][3]中退[7]。 ⇒アートプロモーション所属[8]
来歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "浜田光夫" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年10月)

父は生後1ヶ月のときに結核で死去、母の手ひとつで育てられる[9]。生まれた当初つけられた名前は「斌(あきら)」であったが、後に姓名判断に凝っていた母の薦めで、知人により「光曠」と改名された[10]。戸籍名は「斌」のままである[10]

小学生のときに、兄弟のいない息子を気遣った母の計らいで、バイオリン教室へ通うことになる[11]。また、当時通っていたバイオリン教室の生徒が出演していた音楽映画『ここに泉あり』にその生徒のうちの1人として出演している[12]。習いたての生徒がバイオリンを弾くシーンで、わざと下手な真似をして弾くというのがよく飲み込めなかったという。その腕前は『父と娘の歌』、『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』で見ることができる。

小学校6年生のときに、日本橋三越劇場にて公演『ピーター・パン』を見て興味を持ち楽屋を訪問すると、「来週から来なさい」と言われたことがきっかけで劇団東童に入団[13]1955年劇団民藝若杉光夫監督に見いだされ、『石合戦』に主役の少年で出演[5][14]。『石合戦』に出演する少し前に、バイオリン塾でレッスン中に見事なおならをしてしまい、先生から「バイオリンより良い音が出たね」と言われ、それまでのレッスンと月謝が無駄だったと非常なショックを受け、以後は演劇に力をいれはじめるきっかけとなった[12]。中学3年生のときに劇団四季の『永遠の処女』(演出・浅利慶太)、NHKの民藝ユニット作品『メリイクリスマス』(演出・若杉光夫)にも重要な役で出演する。
本格デビュー

玉川学園高等部在学中の1960年、若杉監督の勧めで『ガラスの中の少女』のオーディションを受け、吉永小百合と初共演[5][15]玉川学園卒業後、高橋英樹と共に日本大学藝術学部へ進学[6]。同年、日活に入社し本格デビュー[3]1961年に『この若さある限り』より、若杉監督から『光夫』の名前をもらい芸名を浜田光夫と改める[5]

その後、数多くの日活映画に出演。吉永小百合のほか、和泉雅子田代みどり松原智恵子松尾嘉代太田雅子(現・梶芽衣子)など若手女優陣らとも共演する。


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